妊娠中など比でないほどお腹が空く。
退院直後、けいこは「もっと食べにゃいかんて」と物凄い勢いで食べ物を買ってきて私に勧めてくるものだから少々驚いていた。 8時に朝ごはん、10時におやつ、12時にお昼ごはん、15時におやつ、18時に夜ごはん、何なら寝床にバナナでも置いておきなさいと言わんばかりである。 もちろん正気である。 とにかくカロリーのあるものを身体に仕入れて、母乳から出て行ってしまう分を補えということらしい。 退院から1週間ほど経った頃、私はなぜけいこがそこまで言うのかを身体で理解した。 本当に5,6食も食べているわけではないが、朝ごはんをしっかり食べていても、昼ごはんの時間の前には血糖値が下がって手が震えるような状態になってしまう。 異常事態だ。 非妊時の通常は、私はほとんど2食しか食べないので3食摂っていること自体でも通常ではないのだが。 ちなみに息子も、寝過ぎて母乳をもらい損ねると飢餓状態に陥ってしまうようで、鬼気迫る焦り様でおっぱいに食いついてくる。 母子は食を共有していて、私たちは数時間ごとに訪れる異様な飢餓感に怯えているのである。 現代日本において、食は美味しく豊かに周辺環境を含めて楽しむものだ、との風潮が強いと思うが、授乳中の母子においては快を求めた能動的選択による食事というよりは、互いの生命維持と子の成長のために選択云々はない栄養補給が最優先である。 母乳を出すという行いはさながら全身運動であり、それを止めるということは簡単にはできない。 そこら中の細胞がわっせわっせと母乳のために臨時の働きに勤しんでいる感じがする。 また、母乳システムががんがんに働いている今の私の身体は授乳感覚が開くと、乳房はぱんぱんに張ってしまう。 そのシステムは子が飲んでも飲まなくても作動し続ける。 人間ひとりがむくむくと日毎の成長を遂げるには、母体のシステムの大変更が必要なのである。 言わずもがな今まで34年間自分の胸から乳が出たことなど一度も無かったわけだが、それが身体の反応で1日に何百ミリリットルも勝手に生産されるようになるのだから本当によくできたものである。 我が身体にしてとても感心する、素晴らしい。 人間は自分自身の“意志”で動いているわけではなく、ほとんど全ての行動が全身の反射によって起きている、という考え方は最近の私の中で結構上位の思考として鎮座している。 それは、呼吸やしゃっくりやくしゃみや消化や排泄といった所謂不随意運動に留まらず、おっぱいに吸い付いて飲んだり手足をバタバタとさせる運動も、「思考する」といった“人間らしい”行動にまでも及ぶ。 私たちは身体全体の反射によって生かされており、また死ぬのだろうと思う。 その中でほんの僅か、たぶん“意志”というものが存在し得て、それによって自分自身を変更していくことができるのではないかという希望があるのではないか。 客観的に息子を見ていると、まだ反射以外の行動はほとんどないのではないかと思う。 “意志”と呼べる能動的何かの獲得までは至っていないだろう。 だから反射への対応にこなれた助産師さんのあやし方とそれで泣き止む赤子を見て、母は一度くらいは助産師さんへの嫉妬や不甲斐なさへの悲しみを覚えるのだろう。 分かっていたことなのだが、赤子を見ているとこれら反射や意志のことをまた一段と思い知ることになった感じがある。 語弊のある言い方になるかもしれないが、間もなく否応なく染み込んできてしまう社会性を得る前ならば、誰に育てられても適切な世話を受ければ赤子は健やかに育つのではないかと思う。 けいこの支援も今日で区切りだ。 大丈夫だろうか。 お腹が、空いた。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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