世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな 伊勢大輔 春眠暁を覚えず処処啼鳥を聞く夜来風雨の声花落つること知る多少 孟浩然 昔学校で習ったものばかりで、あの頃私がどう鑑賞していたのかはさっぱり記憶にない。 圧倒的に数学よりも国語の方ができたタイプだけれど、勉強はただの勉強で、同じ人間である誰か個人が身体で心で感じた何かを表現したことへの敬意や、それ自体を自分のこととして味わってみることはほぼなくて、「古くて関係ないやつ」という括りをしていたのだと思う。 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし、の歌は、簡略的な解説を読んでポジティブ方向に取るかネガティブ方向に取るかは、その人の心の状態や春の好き嫌いによるなと思う。 ちなみに私はネガティブ方向に読んだ。 春なので春らしい題材をと有名な短歌や漢詩を検索して、筆ペンのお手本として書く。 私がとても丁寧に一般的な感じで、九成宮などの古典的なことも少し隣りに置いて、自分のバランスで書く楷書体は、時折「印刷物みたいにきれいですね」と言われることがある。 肉筆の味わいがない、という意味ではなくて、印刷された字のようにブレがなくて突っ込みどころがない、ということで、私も時々、そう思う。 もちろんいつもそう書けるわけではないし、それ以上に“良い”ものは当然、当然に存在するけれど、あるひとつの領域において”良い”なあと自賛するのである。 これはほとんど日々の積み上げが成すものだと思っているので、もう謙遜を置いておいて、「そうですよね」と言ってしまう。 今でこそあれやこれやと色んなことを勉強したりそれを総動員して字を書いたりもするし、ダメさ加減も重々認識しているし、書道を改めてやろうと思ったきっかけの先生というのはいるけれども、私の「書」ではなく「字」に対する原体験としての憧れや興味というのは確固たるものが存在するわけではない。 それ以来、思えば字の練習というのは興味に任せて事あるごとにやっていた気がするけれど、ただ自分の中にあったイメージの再現であり、お手本にしていたものがなかった。 中学生だったある日、漢字の宿題のノートを圧倒的にきれいに書いてやろうとなぜか、本当になぜだか思い立って、記号として覚えれば良いだけの漢字の書き取りに真剣に字を書いたことがあった。 いつもは提出の印が押されるだけの漢字ノートに「とても良く書けています」と花丸がついて戻ってきた。 そうでしょうそうでしょう、とその時に思った覚えがある。 私は書道は幼い頃に習っていたけれど別に特別な興味もなければ、高校のときの選択の授業はミーハー精神で音楽を選択したくらいだ。 毎年競書会なるものが催されて、小中学校のクラス30人の中でもトップを取れないくらいのものだった。 事実、毛筆の部では金賞を獲ったことがない。 ただ、中学校3年生は一度だけ硬筆の競書会があって、私はそこで金賞と獲った。 そのときには「これは勝てる」と思った覚えがある。 こういう類のことにおいて私が自信を持って発言するのは、本当にこれくらいしかない。 やはり詩を味わうことは全然なくて、字だけをただ書いていたわけだけれど、今必死で検索を駆使してその内容を思い出す。 吉野弘さんの「自分自身に」だった。 自分自身に 吉野弘 他人を励ますことはできても 自分を励ますことは難しい だから―――というべきか しかし―――というべきか 自分がまだひらく花だと 思える間はそう思うがいい すこしの気恥ずかしさに耐え すこしの無理をしてでも 淡い賑やかさのなかに 自分を遊ばせておくがいい おそらく、このときの作品は実家の廃墟と化している私の部屋の引き出しに眠っているだろう。 今度帰ったら廃墟から掘り起こしてきたい。 この話は、だから何というようなちっぽけな内容だけれど、「理由なき字への興味」や「理由なき線への愛情」がたぶんあったのだろうと思う。 そしてそれは、所謂書ではなくて、自分の手元で書く小さなとてもきちんとした字体のものだった。 絵が描けない対抗心だけではなかったような気がする。 また貧血なのか低血圧なのか低血糖なのかを起こす。 確かに献血はぎりぎりできないくらいに血液は薄いらしいし、血圧は上が100いかないくらいに低いけれど、ここ最近で言えばお酒を飲んでいるとき以外に起きることはほとんどないので、おそらく一時的な低血糖なのだろうと思う。 傾向として、その日の炭水化物摂取量が少ないまま飲むと起こりやすい。 身体全体の輪郭が冷気に覆われたようにサーッとなって冷や汗をかき、目の前がチカチカしてくる。 今回はリボン型の真ん中がくりぬかれた形の、カーッとした光がど真ん前に見えた。 力が入らないので立ち上がれないし、途中で立ち上がろうものなら目の前が暗くなる。 立っていたら間違いなく卒倒するだろう。 今までにも何度も経験はあるし、あれはただただ、あぁやばいやばい、と思いながら過ぎ去るのを頭を低くして待つしかない。 誰かの助けを借りることができるのだとすれば、水を持ってきてもらって体内のアルコール濃度を下げることくらいだ。 今回は何の前触れもなく、私がトイレに消えて長時間戻ってこないので一緒に飲んでいた方は不思議に思われただろう。 例えばトイレで寝てしまったのかと思われたのかもしれない。 あるいは、自分も酔っているので特に気にされていなかったのかもしれない。 しかしながら、あのような状態になってしまったらもうそこでギブアップなわけで、本当に申し訳ない。 どうにもならないけれど、もう本当に面目ない。 お酒を飲む日のお昼はきちんと食べようと思う。 そう言えばレアチーズケーキしか食べていなかった。 飲茶さんの新刊が出た、とお知らせいただいて「14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト」さっそく購入。 私は哲学的なことは好きだけれど、哲学的な知識はほぼ飲茶さんの本くらいしかない。 「史上最強の哲学入門 東洋の哲人」という飲茶さんの本は私のロックンロール体験の解釈を深めてくれた。 14歳と言えば、池田晶子さんの「14歳の君へ―どう考えどう生きるか」もそうだし、ハイロウズの「十四才」もそうだし、所謂「中二病」の年である。 「今を生きる」とか「どう生きる」とか言葉にするのはあまりにも陳腐なわけだけれど、誰もがより良くなりたいと願うことを否定できないだろうし、なんならめくるめく感動が欲しいわけである。 「毎日楽しければいいじゃん」というのももちろん分かるし、ウユニ塩湖を見てめくるめく感動が得られるのは素晴らしいだろうけど。 「今を生きる」ことも「どう生きる」ことも諦めたくない考え事として、少しの面倒を買いながら考えたいと思うわけである。 何の欺瞞もなく、何の言い聞かせもなく、めくるめく感動があったら良いではないか。 先日の話で言えば、「ホルモン様」よりも「心様」の支配下であるわけで。 なんて面倒な話、よくもまあするよね、というのは私自身も思うところであるけれど、食べたり飲んだり話したり聴いたり書いたり、そこに分け隔てがあるわけではない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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