ある生徒さんが、「分かっていてもできない」ということを体感してほしい、という理由などなどで、一緒にゴルフの打ちっぱなしに行く。
私は、ゴルフと言えばパターゴルフの経験しかないので、全くもってド素人どころか初体験と言っても良い。 まあきっと難しいんだろうなあと思うくらいの軽々しい気持ちだけを携えて、都内のとある打ちっぱなし場に。 結果、ビックリするくらいに難しかった。 巷の話で、接待でゴルフに行くとか、ちょっと趣味で初めてみた、とかいう話をよく耳にするものだが、皆どんなにがんばって練習したのだろうと思うほどに難しかった。 あの人もあの子も、生来のゴルフセンスを持ち合わせているのだろうか、と思うほどに。 いや、たぶんそうではないのだろうけれども。 字を書くことや歌を歌うことや俳句を作ることや泳ぐことなどは、下手なりに義務教育と日常生活に組み込まれているので、出来る、という意味では誰だってそれなりには出来る。 しかしギターを弾いたりゴルフをしたりすることは、大人になってから初めてそれに触るという場合も多いだろうから、まったくのゼロから始める場合も多くあるだろう。 仕事で使うとかよんどころない理由でもない限り、初体験の圧倒的な不甲斐なさを乗り越えられる人というのは、実際のところ何事においてもおそらくそんなに多くはないと思う。 しかしながら、その圧倒的な不甲斐なさを乗り越えなければ、それをプレーすることさえままならなくて楽しむなんて領域には到底辿り着けない。 ある程度の技術獲得までの基礎練習に耐えるだけのそれへの敬意と、地道な努力を重ねた者だけがプレーの権利を得ることができるし、その楽しみの甘さを噛みしめることができる。 プレーにおける前提条件が、字を書くこと歌うこと俳句を吟じることなどと違って、ギターやゴルフは参入障壁がとても高いのだ。 と思うのだが、ゴルフは多くの人が気軽にやっているように私には聞こえているし、挫折したという経験談をあまり耳にしたことがないのはなぜなのだろうか。 無論、基礎練習でゴルフボールが飛ぶようになったところで話が終わりなわけでもなく、カップにめがけていかなければならないし、最終的にカップにインさせなければならない。 道のりが遠すぎる。 「分かっていてもできない」ということもしかと体験させていただいた。 左ひじをピンと伸ばしたまま、胸を寄せて脇を締めて、あまり振り上げずに、膝は軽く脱力して曲げて、左足が上がらないように。 分かっている、さっき聞いた。 これがなかなか出来ないのだ。 やっているつもりでもなっていない。 60分2000円、打ち放題、打ちっぱなし。 空振ったり、かすったり、だふったり。 隣りも隣りもまた隣りも皆、球をカキっと射抜いて放物線を描いた球を飛ばしている。 羨ましい。 今のはここがダメだった、と分析をしながら心を落ち着けて振ってみるけれど全然ダメで。 コーチをしてくれていた生徒さんにやや申し訳ない気分も抱きながら。 結局、鳴かず飛ばずの球はいくつかあったくらいで60分が経った。 私はゴルフが好きになれるのか、私はラウンドしたいのか、そんなことさえも分からないくらいゴルフに対して何かものを思うところまでも至れなかったもやもやだけが残った。 「そのもやもやが良いんですよ、もやもや最高です。もやもやしているうちにまたやりましょうよ」と言ってくださった。 またやりたいか、と問われても本当に何と答えていいのやら、やりたくないわけでは毛頭なくて、ならば一度くらい球を射抜いて放物線を描いてみたい。 けれどそれに対する鮮やかなイメージさえも持てないくらい、ゴルフが遠い。 私の気持ちのような鈍い筋肉痛が残り香のように私の身体に沈殿している。 弾いたり泳いだり書いたりすることは自分からそれに向かっていったから、それ自体が良いものであると本当にそう思ったり、やや誇張気味に美化してきた節があるのかもしれない。 今回は自発的でなかった分美化しなくても良いから、フラットに見ていると言っても良いだろう。 昨日から今日にかけて、ゴルフゴルフと、人生で初めてゴルフゴルフと口にしている。 ゴルフゴルフ。 ゴルフ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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