ものすごい台風だった。
のだと思う。 確かに、夜中授乳に起きたときに風雨の音が凄まじかったのだが、私も息子も授乳の途中で居眠りをしてしまうくらい睡魔の方が勝っていた。 今日は台風一過、夏のぶり返し日である。 そして私は今日から仕事復帰。 息子同席で良いとおっしゃってくださる生徒さん向けにレッスンを再開した。 概ね息子はおとなしくしていてくれた。 しかし今後、60分のレッスンの間、指導がままならないなんてことも起こり得るだろうと思う。 つらい、と口にすることについて。 私の好きなブログのひとつを書かれる方が、この方は実際にも面識がある、書いておられた。 今までずっとずっと心の内にしまってきて、何度も何度も反芻させた錦繍のような文章だった。 まず自分の中でその考え事の納得を丁寧に探し、様々なことに配慮して紡がれたことが文章の質感でよく分かる。 ネガティブなこと、つらいということを書くこと、何らかの形で表現すること。 文句や泣き言ではなくて。 突発的で一時的な感情でもなくて。 それはおそらく、自分自身をひとつ受け入れた、ということだろうと思う。 自分が思うことや実際の行動が、社会通念と異なっていたり、自分の考える理想像と異なっていたり、あるいはもっとややこしいのは「自分が思うこと」と「自分が“ほんとうに”思うこと」が異なっているとき、それを受け入れることはなかなかに難しいものである。 そこには、“ほんとうのこと”が本当に“ほんとう”であるかどうかもまた延々に疑わしいのもあるが。 そこにも書かれていたが、例えば妊娠において言えば、おそらく、「妊娠は身体を案じなければならないが、とても喜ばしく輝かしいものだ。」というのが社会通念であると思う。 社会通念は「半ば絶対的に」そう思うべきだ、皆そう思うに決まっている、と当然のごとくのさばるものだ。 「妊娠はつらいものだ」と発することをあまり良しとはされていない風潮があるだろう。 これはほとんど、母体ではなく、子の方にその喜ばしさや輝かしさの焦点が充てられているからだろうと思う。 めでたいのはあくまで子の誕生であり、母体ではないのだ。 「どうかお身体を大切に」というのは、「子を守るお身体を大切に」ということである。 そう思うのは私の卑屈であろうか。 もちろん、母体である妊婦が子の誕生をめでたく輝かしいものだと思っているとしても。 また、妊婦本人としても「妊娠を愛おしく大切に喜ぶ私」や「妊娠期を満喫する私」や「飄々と妊娠を乗り切る私」でありたいという理想像を何となく持っていたりもする。 その理想像に自分の行動がかけ離れていれば、否応なく自責の念にも駆られるだろう。 あの方がそう言ったからではなく、そして既に以前も少し書いたが、私も妊娠は辛かった。 絶望的に悪阻が酷かったわけでも、妊娠糖尿病などになったわけでもなかったけれど。 私には、数か月前に出産を終えていた、私にとっての妊婦モデルとなった知り合いがいて、その妊婦さんのように「妊娠していてもあんまり普段と変わらないよ」と、そんなふうに私は飄々と妊娠を過ごす予定だった。 これも馬鹿な私の好からぬ期待なわけだが、だから尚のこと、あんなふうに飄々としていられなかった自分に嫌気がさしていた。 ただ、渦中に「辛いつらい」と言ってしまうと、もはや最後まで完遂できない気がして、つらいと口にすることをなるべく自分のために我慢していた。 色々な症状があったけれど、総合的には単純に身体が重たいということと、血を分けていることによって思うように身体が動かなかったのが辛かったのだと思う。 しかしながら妊娠末期、予定日も過ぎた入院前の日に夫を前にして、「もう妊娠しない」と私はやっとの思いで口にして、さめざめと泣いた。 それは私の場合「妊娠を止めたい」でもなく、「腹の子がかわいくない」でもなく、ただ「もう妊娠しない」ということだった。 「妊娠を止めたい」「腹の子がかわいくない」、そう思う妊婦さんもきっといるだろうと思う。 自分の中で思うこととそれを口にすること、また何か行動に移すことはそれぞれに全く異なることである。 最も前段階である自分が「思うこと」というのは、ほぼ自然発生的で言うなれば「思ってしまうもの」であるので止めることはできない。 まずは自分がその「思うこと」を自分で正しく捕まえられるか、それが最も重要であると私は思っている。 それ以降の行動は意志によるものなので、自らのタイミング、自らの判断により“大人”の行動をすれば良い。 自分の外側に吐き出すことによって、ひとつの決着がつく。 というか、物事をあれこれ逡巡して考えてしまうタイプの人にとって、自分の外側に吐き出すことができるようになった頃には、自分の中の納得感はほとんど得られているものだとも思う。 ブログのような公の場所にそのことを書くのは、共感を得たり、同じ境遇の人の励ましになればと思う気持ちもあったかもしれないが、自分自身との大切な決着の軌跡をブログの1頁として刻んでおきたいという面が大きいのではないだろうか。 今、息子はかわいい。 いつが一番かわいい盛りなのか知らないが、もっぱら最近は毎日かわいい盛りである。 数日前の奇跡的なほほえみから、見間違いではなく、本格的に笑えるようにもなってきた。 息子が笑ってくれるのは、もうたまらなくかわいい。 あれとそれとは別の話。 それに、NO MORE HIROSHIMAくらいに、NO MORE NINSHINを謳っているように思うが、無論、これより先私が再び妊娠することがないわけでもない。 変わっても変わらなくても、いつでもなるべく、自分の生々しい声をキャッチできたら良い。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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