三島のじいさんも、三島のとうさんも、死んでしまった。
もうひとりの奈良の創設者も、もっと自分の書を求めたいと卒業していった。 10月末日をもって、私もFacebookの書のグループ「いい書我が書」への毎日の提出を止めた。 5年ほど、書かなかったのはほんの数日だけ、毎日毎日書いては書いては写真を撮ってアップロードした。 私の書の根幹を支えていたといっても過言ではないこのグループの存在に感謝の意は絶えない。 まだ与えられたお題をその日中に仕上げることがなくなった生活にまだ慣れない。 今後は自分でお題を考えて書いていくことになるわけで、毎日という縛りも特段自分に課してはいない。 書は、実際に紙に書くことの難しさもあるけれど、何を書くか、つまり言葉を考える方が難しいという面もあるのかもしれない。 お題を与えられるということは、書作をする上で、かなり楽をしていると言っても良い。 しかも私は自分の言葉を書きたいと願っているので、どこかから詩を掘り当ててくるのではなく、自分の頭でひねらねばならない。 まあ時々は在りものも書くけれども。 このブログにいつも張り付けている書はほとんどがいい書我が書で書いたものである。 自作の言葉の書は、Instagramの方に掲載しており、何となくすみわけをしてきた。 今後は同じものを掲載せざるをえなくなるかもしれない。 継続することは、難しくて簡単だ。 規則があることは、言わば楽だ。 昔生活全般において、不規則が規則である、という言葉を重んじていたことがある。 夜に寝て朝に起きるいう生活習慣ではなく、興に入ることを基点にして寝起きしていた。 その方が身体にとって素直で有益なのではないか、そんな風に思っていた。 今は朝に起きなければならないので、所謂規則正しい生活を送っている。 それはそれで、悪くはない生活であり、比較的楽である。 朝は心地よいし、午前中という時間帯は、あらゆる片付け作業全般にエンジンがかかりやすい。 一日一万歩も、平日はほとんど達成できている。 しかしいまいち興に入るという点でメリハリに欠けるので、やはり息子を寝かせてからもう一度起きて何かをやりたい。 結局のところ行ったり来たりするわけで、また生活の揺り戻しが起きている感じである。 規則正しく自分を律しすぎたり、あるいは気合を入れすぎたりすることで良いものはできないことは明らかだ。 私は自称真面目ではあるので、自分を宙に泳がせるようなことは苦手であると自認している。 しかしちょっとゆらゆら泳いでも良いのかもしれない。 ゆらゆら泳ぐのは勇気が要るけれど。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|