卒乳が近い、と思う。
私の母乳があまり出なくなって数ヶ月、哺乳瓶を嫌がってミルクを飲む量が増えず、生後5ヶ月と6ヶ月の体重が目減りしたという母的に危機的状況だった。 ここ2週間ほどでようやく哺乳瓶からミルクを飲んでくれるようになって、少し安心をしている。 ちなみにまだ全体の3分の1くらいの量は母乳であげている。 「体重はあんまり気にしなくて大丈夫、目の前の子が元気で機嫌が良ければ大丈夫。体重計らなくて良し!」と友人は力を込めて言ってくれて、私は大いに勇気づけられて心を撫で下ろしていた。 たぶん大丈夫なのだろうとは思っても、体のことはなかなか腑に落ちる地点まで至るのは難しいものなのである。 離乳食も始まり、哺乳瓶でミルクも飲むようになると、いよいよ母乳の方を卒業することが見えてくる。 こうなって初めて、本当に驚いたことなのだが、この卒乳のことを考えるだけでも涙が滲む、のである。 その理由を考えればいろいろと言葉や文章で挙げられると思うのだが、その前に、切なさに似た母性と呼ぶ他ない自我がぶわーと湧き上がってきて泣かせるのである。 生まれた直後に想像していためくるめく感動というのは、私には正直なところさほど無かったのだが、こんなところで不意打ちを食らうとは思っていなかった。 先の記事に紹介した「ぐっちゃんが卒乳した」という漫画の回を読んだことで大いに感情が煽られているのもありそうだが、母乳が出なくなり始めた頃に止めても良い母乳を私が止められなかったのは、母乳による息子とのつながりを断ちたくなかったということもあると思う。 母乳で胸がぎゅうっと張るあの感じ、乳首をくわえる可愛らしい顔、一生懸命吸い取って乳房が軽くなる心地良さ、母乳でむせてけほけほしたり、不意に口を離してぽたぽた垂れたり、時に飲み終わって満足気な顔で顔をすり寄せてきたり、時に乳首に吸い付いたまま眠りに落ちていくその様・・・、私と息子だけのものとしてとてつもなく愛おしく思っていたのだろう。 このまま抱き潰してしまいそうなほどに、愛おしい気持ちが湧く。 夫はこの経験を出来ないのだなあと何だか急に不憫に思っていたりもした。 しかしながら母乳をあげていると、何より不自由なのは、直飲みさせるとなると私がいないと食事をあげられないということである。 それに加え、お酒も飲めないし、薬も自由に飲めないし、前開きの服しか着られないようなものだ。 しかしながら、ぐっちゃんの卒乳でも言っていたが、「お酒も薬もワンピースもいらないから、最後に一度だけ飲んでほしかったなあ」というセリフはあまりにも共感を呼んでしまう。 今これを書いていても再びの涙を堪えきれずにいる一方で、やはり文章にしているとどうしても冷静な思考も働いてきて考えると、「この子は私によって生かされている。私がいないとだめなのだ。」というところの小さくて頑強な一種の執着心があるようにも思う。 どうやら私は私の存在意義の確認を、息子を通してしようとしていて、今のところそれに成功しているようなのである。 私は他人に執着することはあまり良しとしていないが、息子とのことはその執着を積極的に排除することはやめようと思っている。 息子に必要とされることは大変な喜びであるので、それは十分に享受しておきたい。 ただ、子が母に執着しがちなのは生命維持的な働きもあるだろうし、心身の発達とともにその執着のあり方も変化していくだろう。 だから息子との関係性で生まれる色々な感情は、母性やホルモンのジャンプ力も手伝った飛躍的ボーナスポイントとしていただいておく感じにしておこうと思う。 そしてまた、もちろん誰かに必要とされることは嬉しいことであるが、それは度合いの問題もある。 四六時中一緒にいるのはやはりお互いに飽きる瞬間が生まれ、ここで再び保育園について逡巡することになる。 保育園に預けるかどうかをずっと悩んでいるのは、飽きたときに誰かに見ていて欲しい気持ちと、息子の瞬間瞬間を見届けておきたい気持ちが交錯しているからだ。 また息子にとって私が一番大切な存在でありたいという独占的な執着心から来るものも大きいようにも思う。 子どもの変化は大人に比べて目まぐるしいほどのスピードなので、もう二度とやることはない、見ることは出来ない、そんな出来事の連続である。 あんなに嬉しい瞬間がもう戻らない、それは毎日毎時覚悟のサヨナラを言い続けることだ。 置き去りになるその感情に対する未練が、卒乳にも保育園にもありそうである。 本当は、毎日毎時がサヨナラなのは、子どもに対してのみがそうであるわけでは毛頭ない。 当然ながら我々はいつ何時も全ての事柄はもう絶対に戻らない時間の突端にしかいられない。 まあでも、自分の外的に変化のわかりやすい子どもという対象では、その一つひとつの出来事に感傷的になりやすいのは仕方あるまい。 あれもそれもこれも、ずっと変わらず同じであることがない、ということが分かっているからとも言える。 無論この先生きる限り息子におっぱいを差し出し続けるなんてことがあるのなら、もうそれは自由を無くした檻の中にいるようなものである。 絶対に嫌である。 明日は初めて、実験的に区の一時保育を利用してみることにしている。 さて、骨董のような書、というテーマの展示会が5月2、3日に決まりそうである。 所属団体に顔を出さなくなって久しく、展覧会は久しぶりである。 傍から見ると変わった風合いの作品が多いと思うが、私が元来やりたいことに結構近い感じであるので面白そうではある。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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