最近少し筋力がついた気がする。
日常的に積極的徒歩を行うようになって数年が経つ。 一時は一日15000歩を目標に、山手圏内どこでも歩いて行っていた。 今はそれほどではないが、時間があるときは一日10000歩を目指して積極的徒歩をしている。 ここ3年は積極的抱っこも加わった。 しかしながら、この場合の積極的の主語は自分ではなく息子である。 自分を後にするなら消極的筋トレであろうか。 ちなみに、ジムのような場所で積極的筋トレはしたことがない。 息子がベビーカーに乗らなくなって2年ほど経つと思うが、積極的徒歩に加わった積極的抱っこの成果が2年越しに出てきている感じがある。 地面を水平に移動する筋肉と、地面を蹴り上げて重力に逆らう筋肉は全然別物であると思う。 私は長時間歩くことには慣れても、走ったり飛んだり上ったりすることが酷く苦手であることは以前と変わりがないように感じていた。 いくら息子を抱っこしていると言っても、筋力が上がるわけではないのか、と少し落胆もしていた。 だって日々こんなに頻繁に消極的筋トレを頑張っているというのに。 そして、そのまま筋トレの負荷は上がり続け、しかし筋トレの時間は一向に下がる気配もなく。 続けていたら、いつの間にか走れる自分に気が付いた。 階段を上るのも身体が軽い気がする。 おそらく、ようやく身体の実感が得られるまでの筋力、体力がついていたのだろう。 積極的抱っこ、消極的筋トレがようやく実を結んだのだ。 生き物としてのレベルが少し上がったような気持ち。 夫の実家の近くで行われた季節外れの花火を見に行った。 息子は生まれて初めての花火。 乗り継ぐ電車やバスを紙に書いて、最後に花火と書くと、彼はきょとんとした。 まあいい、行けば分かる。 ひらがなやカタカナが読めるようになった彼は、駅名を読むことに精を出していて、電車の中で比較的おとなしくしていてくれた。 あと、電車やバスのアナウンスが好きなので、そちらを復唱することにも熱心である。 熱中できることがあるというのは素晴らしいことだ。 1時間半の道中も難なくクリアし、花火大会の会場も、なぜか暗闇人ごみをひとりでずんずん進んでいった。 おそらく早歩きをして人ごみを抜けたかったのだろう。 どっかーーんっておそらにひろがるよ、どっかーん とあと3分で始まるというときに、私は体いっぱいに彼に説明をした。 彼も、「どっかーん」と嬉しそうに手を広げてやってくれた。 いざ。 ばんばんばんばんばばん。 私も何年かぶりに花火を見て、嬉しかった。 言い方は変だが、自分とは関係のない、郷愁や青春やノスタルジアに襲われて何だか涙が出そうだった。 息子はと言えば、お父さんに抱っこされたままべそをかいていた。 こわい、かえる、あっち。 必死にその場から離れる指図をしていた。 まあ確かに、火薬が爆発して何なら自分の方に向かって降ってきそうなのだから、恐怖を感じるのは普通の反応のような気もする。 でも終わってからは「はなび、こわかった、はなび、たのしかった」と半々には言っていた。 おばあちゃんの家ではプレミアムチョコパイにご執心。 「しろいチョコパイ」と、1泊2日の滞在で3,4個食べたのではないだろうか。 好きなものがあることは素晴らしいことである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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