「キーチ!!」を読み進めているわけだけれど、「宮本から君へ」よりももっと涙目になる。
今までも、私が何に心を引っ掴まれているかはだいたいわかっていたけれども、「キーチ!!」にもそれがある。 「カイジ」も「天」も「すべてがFになる」も、飲茶さんの哲学の本も、ブルーハーツも、オアシスも、くるりも、言ってみれば私はその要素を拾い続けている。 漫画的男子感でもなくて、文章的悦楽でもなくて、音楽的トランスでもなくて、“それ”。 それは、エンターテインメント的に面白い、ということではない要素で、それは一番最初、「リンダリンダ」を聞いたときに訳も分からず腹落ちだけが先立って起こったわけだけれど、後々解釈を深めていくとそういうことだった。 それは私がそれまで自覚していなかった居心地の悪さのようなものを云わば“癒してくれた”。 エンターテインメント的に面白い、というのはそれはそれで大好きだけれども。 それは、言葉で言ってしまえば、今分かっている範囲で言えば、「圧倒的ひとり」「どう考えたって独り」であるということ。 悲観でもなく、絶望でもなく、楽観でもなく、諦観でもなく。 そんな当たり前のこと、そんな単純なこと、なのかもしれない。 ただそのことは、本当に私を“癒した”。 「ひとり」であることは、“わたし”が“わたし”であって良くて、それは例えば親も関係がない。 「産んでくれてありがとう」だなんて、だからこそ言えるのではないかと思う。 ただそもそも離ればなれで「ひとり」である人々の存在それぞれが希望であり、他人の存在自体が温かい、というのは「カイジ」からの抜粋だけれど、私は鉄骨渡りのそのシーンが一番印象的だったし、そんな風にも思っている。 「ひとり」であるというただそのことは、先日も書いたけれど、孤独を好む、ということではない。 ただ「ひとり」であるという、ただの事実。 だからそんな他人が愛おしいのだと思う。 私にとってものすごく大事なことなのだけれど、さっぱりうまく言えている気がしない。 こんなことを大事に思うのは、きっと多かれ少なかれ、思い通りにならなかった過去、によるものなのだと思う。 それが大事なのは、欠落してしまった自分の何かを受け入れて、「ふう~~~~」とひと息ついて、「さあて、どうしよう?」と変わりなく脈々と続いていく時間を“わたし”が生きていける、ということだ。 それはそれでまたとても難しいものなのだけれど。 こんな概念を、素晴らしい作品を通して見る度に、私は何度も、ううう、と目頭が熱くなってしまうのである。 急に思い立って、まな板を買った。 引き出し式になっているジョセフジョセフのものを結婚式の引き出物のギフトカタログでもらって使っていたけれど、分厚くて邪魔なのと2層式で洗うのが面倒なのと、木のまな板を使ってみたくて。 ちらちらっとAmazonを探して、値段がそこそこで評価がそこそこの、ひばのまな板にした。 プライムはすごい、深夜に注文して今夜に来た。 「木の香りが強い」というレビュー通り、木材屋にいるような匂いが部屋中に立ち込めた。 葱と玉葱を切ると、今までとは違う、木の「トントン」という音がした。 出汁の香りとやかんの湯気が漏れてくる台所で、白い割烹着を着て大根を切るお母さんの後ろ姿が見えるような音だった。 これは、イメージ上の。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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