そう言えば、数日前に「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行った。
「この世界の片隅に」以来の映画館である。 前々から楽しみにしていたわけでも何でもなく、私がそれを観に行く前日にレッスンに来ていた若い女の子がその映画を既に9回観ているというものだから観たくなったのだ。 コナンは昔漫画も読んでいたし、結構好きだったのもあったけれど、ここ数年の動向はさっぱりわからない。 彼女によると、公安のアムロトオルという人物がかっこいいということで20代半ばくらいの女性に絶大な支持を得ているらしい。 それにしても、同じ映画を、なんと9回。 9回である、9回。 レッスンに来ていたその日もまたこれから観に行くのだと言う。 なんと10回目。 観始めてから2日に1回ほどのペースで行っているらしいし、初日などは1日で連続2回観たそうだ。 この調子なら鑑賞回数はさらに増えるのだろうし、楽しそうな日々である。 いつになく興奮気味に話す彼女を私はほほえましく思っていた。 その日彼女がフリー課題で書いてきたのは主題歌の福山雅治が歌う「零 -ZERO-」だった。 それならばと、普段映画館に行かない私も行ってみるかと思った次第だ。 人が強く推してくるものについて私は結構弱い。 彼女の言うとおり、映画館は20代半ばほどの女性たちでほとんど満席で、最前列しか取れなかった。 祝日の前日だったからということもあるかもしれない。 映画は寝ずに楽しめた。 というか、結構面白かった。 確かにアムロトオルがファンタジックにかっこいい。 実写では叶わないあり得ないアクションシーンは迫力もあるし、一方で笑えてしまう。 テレビではなくて大きなスクリーンで観る価値がある。 とはいえ私はコナンにハマってはいないが、何かに熱狂的にハマるとき、それが自分にとってどういうことなのかということに私はとても興味がある。 なぜこんなにも心が動くのか、そこには何らかのマインドブロックが存在している、あるいはしていたことが多いものである。 本来、身体が先に反応するだけで良いのかもしれないけれど、それを言葉にできたときの快感は甚だしいというか私にとっては安心感を呼ぶようなことでもあり、また、明文化できたのなら他の似たような事柄にも活かせるかもしれないと思う。 自分にとって汎用性が高い言葉を見つけることは難ししくて楽しい。 ただ明文化には時にとても時間を要する。 何年もかかったり謎のまま死んでしまうということもあると思う。 できるだけ心身をフラットに整えておかないと、掴みかけたそれはするりと抜け落ちて、あるいは掴みかけていることにも気づかずに、快感を得るきっかけを逃してしまうかもしれない。 あと結局、とても純粋な身体的反応、脳的反射としか言いようのない自分自身の傾向というのもあるだろうから、最初から明文化できるような答えなど無かった、ということもあるような気がする。 だから考えても無駄という気もするが、答えが無かった、ということを知れれば良いのでやはりまあ考えるのも悪くない。 かなり久しぶりにギターを触って指がとても痛い。 数年前に覚えた簡単なコードたちは案外忘れていないものだが、やはりブランクがあると全然上手く音が出ない。 指先もさることながら、セーハしている人差し指が腫れてしまった。 金属のワイヤーにぎゅっと指を押しつけているのだから当然だし、別にギターなんて弾かなくたって良いのだけれど、指が痛くたって音を鳴らしたくなったというただの無駄な我が思いは愛おしいなと思ったりする。 そして、これは怠慢がいう言葉だが、ギターを思いのままに操れる人は本当に羨望の的である。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|