ハノイの朝みたいだ。
いもうとはふたりの子どもを電動自転車に乗せて現れた。 いもうとの家に行くときも帰るときも、なぜだか私はいつもハイロウズを聞いているような気がするけれど、イヤホンをしたまま、前にも後ろにも自分の子どもを抱えたいもうとの姿はとても奇妙だった。 久しぶりに姪たちに会いに行くと、7か月になる姪はもそもそと世の中を這いずり回り出していた。 寝返りがやっとだったのはほんのひと月前ほどのことだったのではないだろうか。 3歳の姪が小さかった頃と違うのは、お母さんの姿が一瞬でも見えなくなるとすぐさま泣き出して追いかけまわしていることで、私がどんなにいもうとと顔が似ていようとも私ではもう全く手が付けられない。 時々、いもうとと私をまじまじと見比べているけれど、騙されたりしない。 おばあちゃんでも、お父さんでも、ダメらしい。 私のお母さん!私のもの!どこ!いない!やだ!だめ!という感じで大泣きして、お母さんが抱きあげてくれれば何事もなかったかのようにケロッと泣き止む。 いもうとがお風呂に入っている時に、泣きながら風呂の扉にしがみついているので、抱き上げようとも仰け反って泣くのでまあいいかとしがみつかせて泣かせておく。 だっておばさんではどうにもできないのだ。 風呂から上がった姪に「オムツをよろしくね、反対に付けないでね」と言われ、「任せて!」とほやほやに濡れた姪をバスタオルで受け取ってソファでオムツを付けようとも、ひと月前とはわけが違ってオムツを付けようとする側から泣いて仰け反って逃げていくので、ただでさえオムツの付け方がよく分からない私は、お母さん!無理!お母さん!お母さーん!、といもうとを呼び立てる。 結局オムツはいもうとが付けた。 不甲斐ないけれど仕方ない。 一体この子はどんな子に育つだろうか。 そして私はオムツを上手に付けられる日が来るのだろうか。 上の姪はそんな日常を我慢して振る舞っているように見える。 姪は人の肘を触るのが好きで、テレビを見ながら「てて貸して」と言うので、「はい、どうぞ」と腕を差し出す。 いもうとが先に下の姪を寝かしつける間、私にぴったりくっついてアンパンマンを見ていると、私が必ず寝てしまう。 「おばさんねえ、すぐ寝ちゃう」と普段も言っているらしい。 いもうとが作るパンが美味しくて、それはホームベーカリーで作っている。 いもうとも私と同じくらい面倒くさがりなので、決してパンをこねたりはしない。 私たちは、美味しいパン屋さんの話をよくする。 総菜パンや甘い菓子パンなどよりも、粉に忠実でシンプルなバケットや食パンやハード系のパンが好きで、時折それらのパンのことを「真剣パン」と呼んでいる。 粉をケチらず、バターなどの油脂やハチミツなどの糖分に頼らず、膨らませ過ぎていないずっしりとした重さが好きなのだ。 ホームベーカリーも、粉と砂糖や塩やイーストの配合を間違えなければ「真剣パン」が焼ける。 炊飯器ほどの大きさのホームベーカリーからパンの焼ける匂いが漂ってきて、思わずみんなで近寄る。 ステンレスの焼き釜から小ぶりの食パン一斤がごろんずしんとあつあつで出てくる。 香りも見た目も、幸せというよりは幸せの象徴、という感じがする。 ふかふかのそれは、小麦そのものの甘さがあるのでバターもジャムも要らない。 ホームベーカリーを私も買おうかと思ってしまった。 自分でパンを焼く、というハードルの高さはホームベーカリーにはほとんどないし、ひとり暮らしにもおすすめ、といもうとは言っていた。 確かに、ごはんを炊くように、パンも自分で焼いたらいい。 例えばそれを誰かの家にお邪魔するときのお持たせなんかにしたら絵になるし話になる。 挨拶にマフィンを焼いて、ギンガムチェックや花柄の紙を敷いたかごに入れて持っていく「デスパレートな妻たち」の料理が得意なブリ―のようである。 しかし私は本当に家でパンを定常的に焼くだろうか。 ならばトーストが劇的に美味しくなるというバルミューダのトースターがとても気になっているけれど、その方が断然に使うだろう。 ホームベーカリーの倍くらいの値段がするけれども。 「カイジ」からの悪魔的スピンオフの「中間管理録トネガワ」をセブンイレブンで購入。 「カイジ」よりも圧倒的にギャグ的であって中身は薄々なのだけれど、親愛なる福本さんのギャグ的世界感がとても好きなので、本当に愛おしく読める。 笑ってしまって、笑ってしまって。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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