私が所属する書道の団体の展覧会が会期を迎えている。
毎年、乃木坂の国立新美術館で行われていて、出品は言ってみれば同人である以上義務である。 ※同人書作展 【会期】 平成28年6月22日(水)~7月3日(日) 午前10時~午後6時(入場締切午後5時30分) [6月28日(火)休館日] 【会場】 国立新美術館 2階展示室(2CD) 乃木坂駅から直結 今まで、ブルーハーツや向井秀徳や谷川俊太郎や、私が心を打たれた日本語の詩をひたすら書いてきたわけだけれど、今回は初めて漢詩作品を書いた。 単純にひらがなに飽きてしまったという理由と、今回書いた「蘭亭序」に心を打たれたということもある。 「蘭亭序」は、永和9年(353年)に書聖とも呼ばれる王羲之によって書かれたとても有名な書である。 超が付くほど書道界では権威のある書で、おそらく書道をやっている人においてはほとんど臨書をして勉強したことがあるだろう。 そんな恐れ多いようなものであるけれど、その書のみならず、「蘭亭序」の詩文そのものや、これが書かれたエピソードがとても好きなので創作で書くことにした。 詩文の最後、後にこれを手にとって見てくれる人は、きっとこの文章に何かを感じてくれるにちがいないと信ずる次第です。というくだりがあるのだけれど、約1700年もの間、数え切れぬ多くの人たちによって脈々と受け継がれているという事実。 大層に言えば、私もその一端を、地球の中のただひとりとして、ほんの少しでも私がそれに触れた事実を残したいなと、そんな気持ちを込めつつ、とりあえず今ある力を振り絞った。 歴史に刻む、という言い方も大層なものだけれど、しかし実際に皆歴史上のひとりであることに相違はないわけで、「人間が人間たる意志を受け継ぐ」、そんなことをしたかったのだ。 これは何千年の長い時の歴史を持つものに限らず、もちろんブルーハーツでも何でも同じことであるけれど。 いつもは結局最初の頃に書いたものが一番良い、なんてことがあるものだけれど、今回はいろいろ工夫もしたし少しの苦労もした。 漢詩作品に慣れていないこともあったし、筆にも遊ばれまくっていた。 夜な夜な、あるいは朝な朝な結構たくさん書いたと思う。 結果出品したのは一番最後に書いたものであった。 そして、己の技術力や表現力の力不足をうな垂れるほどに感じた今作でもあった。 展覧会場で自分の作品を見るのには少し勇気が要る。 出品は約2か月ほど前だし、そのときのある程度気持ちの高ぶった自分にこんにちはするのは気恥ずかしいのである。 しかしもう出てしまっているなので、つべこべ言うこともないしできないわけだけれど。 以前のブログにも載せたものであるが、全文と書き下し文、意訳を載せておく。 永和九年、歳在癸丑、暮春之初。會干會稽山陰之蘭亭、脩禊事也。 永和九年、歳は癸丑に在り、暮春の初め會稽山陰の蘭亭に會す。禊事を脩するなり。 永和九年癸努丑の年、春(三月)初めに、会稽山のかたわらにある「蘭亭」で禊事(曲水の宴)を開きました。 郡賢畢至、少長威集。此地有崇山峻嶺、茂林脩竹、 郡賢畢(ことごと)く至り、少長威集まる。此地、崇山峻嶺、茂林脩竹有り。 大勢の知識人、年配者から若い人まで集まりました。さて、ここは神秘的な山、峻険な嶺に囲まれているところで、生い茂った林、そして見事に伸びた竹があります。 又有清流激湍、暎帯左右、引以為流觴曲水、列坐其次。 清流激湍ありて、左右に暎帯せり。引きて以って流觴の曲水と為し、其の次(かたはら)に列坐す。 激しい水しぶきをあげている渓川の景観があって、左右に映えています。その水を引いて觴(さかずき)を流すための「曲水」(人口の小川)を作り、一同周りに座りました。 雖無絲竹管絃之盛、一觴一詠、亦足以暢叙幽情。 絲竹管絃の盛無しと雖(いえど)も、一觴一詠。亦、以って幽情を暢叙するに足る是の日なり。 琴や笛などの音楽が奏でるような華やかさこそありませんが、觴が流れてくる間に詩を詠ずるというこの催しです。心の奥を述べあうには十分です。 是日也、天朗気清、恵風和暢、仰観宇宙之大、俯察品類之盛、 天朗に気清(すみ)、恵風和暢せり。仰いでは、宇宙の大を観、俯しては品類の盛なるを察(み)る。 この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がのびやかに流れていました。我々は、宇宙の大きさを仰ぎみるとともに、地上すべてのものの生命のすばらしさを思いやりました。 所以遊目騁懐、足以極視聴之娯、信可楽也。 目を遊ばしめ、懐いを騁する所以にして、以って視聴の娯しみを極むるに足る。信に楽しむ可きなり。 目を楽しませ、思いを十分に馳せる、そして(それを述べ合うのは)見聞の楽しみの究極といえます。本当に楽しいことです。 夫人之相興、俯仰一世、或取諸懐抱、悟言一室之内 夫れ人の相興(あいとも)に一世に俯仰するや、或は諸を懐抱に取りて一室の内に悟言し、 そもそも人間が、同じこの世で生きる上において、ある人は一室にこもり胸に抱く思いを人と語り合おうとし、 或因寄所託、放浪形骸之外。 或いは寄するに、託する所に因りて、形骸之外に放浪せり。 ある人は、言外の意こそすべての因だとして、肉体の外面を重んじ、自由に生きようとします。 雖趣舎萬殊、静躁不同、當其欣於所遇、暫得於己、 趣舎萬殊にして静躁同じからずと雖も、其の遇う所を欣び、暫く己れに得るに當りては、 どれを取りどれを捨てるかもみな違い、静と動の違いもありますが、そのそれぞれが合致すればよろこび合いますし、わずかの間でも、自分自身に納得するところがあると、 怏然自足、不知老之將至。及其所之既倦、情随事遷、 怏然として自ら足り、老いの至らんと將(す)るを知らず。其の之く所、既に倦むに及びては、情事に随ひて遷り、 こころよく満ち足りてしまい、年をとるのも忘れてしまうものです。自分の進んでいた道が、もはや飽きてしまったようなときには、感情は何か対象に従って移ろい、 感慨係之矣。向之所欣、俛仰之、以為陳迹、 感慨之に係れり。向(さき)の欣びし所は、俛仰の間に、以に陳迹と為る。 感慨もそれにつれて左右されてしまいます。以前あれほど喜んでいたことでも、しばらくたつともはや過去の事跡となることもあります。 猶不能不以之興懐。况脩短随化、終期於盡。 猶、之を以って、懐いを興(おこ)さざる能はず。况や、脩短、化に随(したが)い、終に盡くるに期するをや。 だからこそおもしろいと、思わないわけにはいかないのです。まして、ものごとの長所・短所は変化するものであって、ついには人の命も終わりが定められていることを思えばなおさらです。 古人云、死生亦大矣。豈不痛哉。毎攬昔人興感之由、 古人も、死生亦大なりと云う。豈、痛ましからずや。毎に昔人感を興ずるの由を攬るに、 昔の人も死生こそ大きな問題だと言っています。これほど痛ましいことはありません。昔の人は、いつも何に感激していたか、そのさまをみていると、 若合一契未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懐。固知一死生為虚誕、 一契を合はすが若し。嘗て、文に臨みて嗟悼せんずばあらず。之を懐(こころ)に喩す能はず。固(まこと)に死生を一にするは、虚誕たり。 割り符を合わせるように私の思いと同じでした。いまだ嘗て、文を作るとき、なげき悲しまないでできたためしはなく、それを心に言いきかせる術はありませんでした。実際に死と生は同一視するなどということはでたらめです。 齊彭殤為妄作、後之視今、亦由今之視昔。 彭殤を齊(ひと)しくするは妄作たるを知る。後の今を視ること、亦由(なお)、今の昔を視るがごとし。 長命も短命も同じなどというのは無知そのものです。後世の人が今日をどうみるか、きっと今の人が昔をみるようなものでしょう。 悲夫故。列叙時人、録其所述。雖世殊事異、所以興懐、其致一也。 悲しいかな。故に時の人を列叙し、其の述ぶる所を録す。世、殊に事、異なると雖も、懐(おも)い興す所以は、其の致(むね)一なり。 悲しいではありませんか。こんなわけで今日参会した方々の名を並記し、それぞれ述べたところを記録することにしました。世の中が変わり、事物が異なったとしても、人々が心に深く感ずる理由は、結局は一つです。 後之攬者、亦將有感於斯文。 後の攬る者も、亦、將に斯の文に感ずる有るらむ。 後にこれを手にとって見てくれる人は、きっとこの文章に何かを感じてくれるにちがいないと信ずる次第です。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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