ポケモンGOが社会現象になっているのは知っているけれど、私はポケモンGOが今でも何なのかがよく分かっていない。
というか、「先生、ポケモン世代ですよね?!」と言われて、「ポケモン世代???」とポカンなのだ。 もちろん、「ポケモン」が「ポケットモンスター」の略であることは知ってはいる。 しかし、それ以上の何の情報も持っていない、何も分からない。 ポケモン世代、つまり同世代の生徒さんに説明されて、ポケモンの中の一キャラクターがピカチュウなのだと初めて知ったし、それまでポケモンはドラえもんみたいなタイトル兼キャラクター名だと思っていたらそれも違うようだ。 ゲームなのか、アニメなのか、何のゲームなのか、私は未だに分かっていない。 「ポケモン世代」という言葉があるほど、ポケモンは私が子どもだった頃、一世を風靡したらしい。 そんなに皆は「ポケモンポケモン」言っていただろうか。 そんな記憶が私に全くないのは、愛知県にポケモンが浸透していなかったからなのか、単に私がポケモンに興味がなさすぎたからなのか、判然としない。 興味を持たせてもらえないほどに勉強させられていた、とかそういうことだけはないけれども。 おそらくだけれど、私は幼い頃、何かにハマる、無我夢中になる、ということをカッコ悪いと思っていたのではないかと思う。 自分の過去なのに類推でしか物を言えないのは、私があの頃全般の意識を封鎖していたような節があるからで、何を感じていたのかがよく思い出せないからである。 まあでも、無我夢中になる、というのは、意識的無意識的関わらず、することを止められない状態なのだとすれば、そんなに熱くなるものが私には無かったのだとも思う。 達観していたわけでもなく、周りを馬鹿にしていたわけでも全然ない。 皆と違ったことをしたい、なんてこともない、かと言って同じになりたいと望んでいたわけでもない。 周りの人が皆敵だ、と思っていたことも全然ない、そんな発想すら無かった。 賛同も、批判も、無かった。 体としては、ただ無自覚にええかっこしいだったというか、上手くできていたかは別にして私は私から見た周りの人に“クール”に思われたかったように思う。 主体的なカッコ良いとか、カッコ悪いとか、そんな可愛らしさは無くて。 それは自分が持つ主体性が他人にバレるのが嫌だったからなのかもしれない。 何事にも基本形で冷めていて、意見がないようにしていれば、どんな振る舞いも後から言い訳ができる。 ああ、そうか、これは今の私にも傾向として残っているのかもしれない。 ひとりになると安心するのも、仕事以外の即興が苦手なのも、そういうことなのかもしれない。 基本は他人に悟られたくないけれど、正しくなら是非とも悟って欲しい、そんな失礼な強欲さが私にはあるのだろう。 予測がつかない影響範囲を恐れていて、だから主体を曖昧に覆い隠す。 「お前は檻の中から吠えているだけだ」とある人に言われたことを、私は何となく克服したように思っていたけれど、そんなことはないのかもしれない。 実家に帰って、仏壇の鈴を鳴らし、おばあちゃんと大声で話をして、桃とぶどうを食べて。 ふたりの姪はめいめいに喧しくて。 けいこの用意する晩ごはんは、一段と斬新さを増していた。 22時にはみんな寝静まってしまった。 ポケモンはどこに行ったのか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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