人生で初めて行きつけ、というかよく行く飲み屋はかろうじてできたけれど、行きつけのカフェは持ったことがない。
仕事で利用するファミレスやルノアールで十分であまり必要性を感じることもないのだけれど、こんな晴れた午後、仕事までの空き時間はたくさんで、さすがにもったいないと丸1日以上ぶりに外に出る。 締め切り間近の俳句が行き詰まった、ということもある。 句作はそのときにいる場所によって浮かぶ単語の範囲がとても変化するので、新しく行く場所では、句作をしないまでも単語をメモに留めておくことくらいはした方が良い。 前回の句会から、もっぱらそれもしてなかったのでネタ切れなのだ。 自転車で5分ほどのところに外見だけではカフェ系なのか喫茶室系なのか判然としないお店を発見した。 扉を開けると、喫茶室系のお店だった。 銅板で焼くホットケーキが売りのようで、私は出かける前にしけたごはん、昨日のごった煮に素麺を入れた、を食べたことをとても後悔した。 しかし、いかようにも今お腹が空いているとは思えないので、アイスコーヒーだけを注文した。 ホットケーキ、はふんわりパンケーキとは一線を画す、ただおやつにも留まらない憧れを含んだある種の郷愁的な幸せシンボル的な地位にいるように思う。 アメリカの家庭のパンケーキでもなく、日本の家庭のホットケーキとしての。 これは、だからと言ってホットケーキが頻繁に食べたいかとかそういうことではなくて。 現に私はホットケーキもパンケーキも少なくともここ1年の間に食べた記憶はない。 それでも、時代性や世代ということもあるかもしれないけれど、ホットケーキの何かしらのエピソードというのは比較的多くの人が持っているのではないだろうか。 例えばクッキーを焼いたことがない人よりも、ホットケーキを焼いたことがない人の方が断然に少ない気がする。 大した特別感もない、なんてことはない、そんな思い出を私は思い出したい、ということもある。 私はクッキーはほとんど焼いたことがないといっても良いけれど、ホットケーキはある。 小中学生の頃、狭い台所のテーブルの上でホットケーキミックスに牛乳や卵を入れて混ぜ、お玉一杯分をホットプレートに流し入れて、ふつふつと気泡ができるのを見つめていた。 その脇で、お玉に残ったホットケーキの素を数滴垂らしてカリカリに焼けるのも楽しみにしていた。 どちらかというとそのカスみたいなやつの方が楽しみにしていた気さえする。 バターでなくてマーガリンで、メープルシロップはあったかどうか、覚えていない。 あれはおやつだったのか、お昼ごはんだったのかは思い出せない。 家で作るホットケーキには、商品としてのホットケーキミックスが売り出したかった温かな家庭のイメージも根強くあるだろうし、それが個々の思い出のホットケーキの甘さや温かさとうまくマッチして記憶されているのだろう。 それに、キューブのバターとメープルシロップが何枚も積み上がったホットケーキの上から滴り流れる絵のイメージも強い。 たとえば3枚ホットケーキを積み上げて、バターもシロップも好きなだけ、というのは軽いランチくらいのカロリーがあるだろうし、ちょっとした”いけないこと”感があるのだろうと思う。 この“いけないこと”感はホットケーキの、おやつに留まらないちょっとした憧れのシンボル的存在であるための一つの大事な要素のような気がする。 と、そんなことをつらつらと書いていたら絵本の「しろくまちゃんのほっとけーき」が欲しくなって、アマゾンで注文した。 新しく行った喫茶店の話が、食べなかったホットケーキの話でひとり盛り上がってしまった。 古びているけれどこざっぱりきれいにされたスナックのような店内、 薄く錆びついた椅子と、破れてはいないソファ、 「厳選された焙煎豆のコーヒーの薫りをあなたに」という、一度水でもかぶったのだろうかという水染みのあるポスター、 「ホットケーキ アイスクリーム乗せ」や「ゆであげトマトパスタ」、「すべてのメニューにはコーヒーか紅茶が付きます」と潔い線質で書かれたメニューは他の物に比べると新しそうで、 少し開いた戸棚、その奥に店主にしか分からないであろう絶妙に配置されたワイングラスやコリンズグラス、でもお酒は見えるところには置いてなくて、 パイレーツオブカリビアンのジョニーデップが睨んでいて、 トイレはユニットバスの小さなタイプでえんじ色、 ポンプ式のハンドソープはこちらが正しいのだと言わんばかりにきちんと成分表示の方が表側に、 ターバンを巻いて眼鏡をかけた店主は”ママ”と呼びたくなる風貌で低いヒールをガツガツ鳴らし、 ホットケーキをパンケーキと呼んで、スマホを片手に黄色い声で笑っているホットパンツの若い女性が二人、 彼女らが帰ると、店主は間髪入れずにステレオのスイッチを入れてジャズが流れ出し、 彼女らの皿やグラスを、割れてしまわないかと心配になる音を立てて片づけ始め、 薄暗い店内から、暗闇からの出口、といった感じに開かれた扉の向こうで、バイクや車が何台も通り過ぎ、どこかの工事が元気よく行われ、鳥が鳴き、時折人の喋り声が聞こえて、 宅配便の人がやって来て、こぎれいな初老の婦人はアイスティーを5分で飲み干し席を立ち、長らく散歩してきたのかゼーハー言いながら入ってきた老夫婦を入れ違いに私は店を出た。 俳句を推敲しながらアイスコーヒーをゆっくり飲んでいると、確実に薄まっていくのを感じながら、でもずっとなくならないのではないかと思えた。 夜、投句をして、録画してあった「ゆとりですがなにか」を観る。 宮藤官九郎にあっぱれ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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