3ヶ月ほど前、1年ほど前に買ったアルテシマの葉が全部落ちてしまって気落ちしていた。
私は自宅の植物を枯らした経験が少ないのだけれど。 原因は何だろうと、ネット情報を漁ってみたが、陽当たりも風通しも良い場所であるから、もしかすると水やりが足りなかったのかもしれないという点だけ思い当たった。 あるいはその個体特有の理由で生きられなかったというのはもうどうしようもない。 木の幹と枝だけになってしまったアルテシマ。 常緑樹なのに冬に裸になってしまった。 寒々しく、白く、らせん状になったアルテシマを、しかしながら私はどうしてもすぐには捨てる気になれなかった。 らせん状に巻いた幹は自然の形ではなく人間の手によるもので、そういった纏足のようなことをされると植物は多少弱くなってしまう、と買った当初植物屋さんに言われていた。 例えばパキラは編み込みになっているものをよく見かけるが、生命力の強いパキラを枯らしてしまう大きな原因のひとつらしい。 確かに、それは容易に想像がつく。 アルテシマの土にしっとりとするくらいに水やりをして、春まで放っておくことにした。 ちなみに水やりを控えていたのは意図的である。 基本的に観葉植物として売られているものはアフリカか東南アジアか、熱くて乾燥している地域のものが多い。 それらに水をやり過ぎると根腐れして枯れやすくなってしまう。 水やりは原則土が乾ききってから、その後受け皿からにじみ出るくらいに、というのが鉄則である。 そのまま裸のアルテシマを放置して2か月、4月初旬、かえるくんの誕生もあるし、私は意を決してアルテシマを捨てるべく大きな植木専用のハサミで解体を試みようとした。 細めの枝を一本、ざくりといくと、枝の芯はまだ十分に湿っていて白い樹液が出てきた。 まだ、生きている。 春だ。 この状態で捨てられるはずもなく、また水やりを追加して1ヶ月。 なんと可愛らしく、柔らかく、瑞々しく、艶々の、緑の赤ちゃんが芽吹いてきたではないか。 固く茶色くなった枝の先を食い広げて生れ出てきたのである。 ちょこんとした緑の赤ちゃんは、徐々に葉脈の見える葉っぱの形になってきた。 新緑の季節、葉緑素で光を吸い込み、もっともっとその葉を大きくさせていくだろう。 木々草花の芽吹き、それがとても好きである。 何とも静かで力強く、デリケートでダイナミックな生命の動き。 かえるくんも生命爆発その真っ只中で、出産時は言うなれば芽吹きのようなものなのかもしれないが、動物のそれと植物のそれは何だか美しさの質が異なる気がする。 まず、かえるくんは植物でもなければもとよりかえるでもないので、あんなに可愛らしい緑色はしていないのである。 奇しくもかえるは緑色のものもいるけれども。 植物たちの溜め込んだ力を一気に見せつけられる季節である。 季節季節と言うことを避けがちな私の一面があるが、いやはや最も好きな季節の到来である。 アルテシマの復活を令和とともに祝おうではないか。 そう、令和になった。 元号発表のときほど全くどきどきしておらず、普通の、ただの夜として改元の0時を迎えた。 テレビでは新天皇の即位にまつわるあれこれをやっているだろうが、それらの昼食時の定食屋でちらりと一瞥しただけである。 これは、人と一緒に過ごしているからでもある。 ひとりでいたら多分テレビの前でそれらを滔々と眺めていただろう。 ふたりでいるからと言って何か特別なことをしているわけでもないが。 象徴としてのお役目はさぞかし、私など想像も及ばない大変なことだろう。 地球上のただひとつの“わたし”の人生ということを考え始めてしまったら、”わたし”が大変なことになる。 かえるくんは早産の危機があったわけではないが、無事に平成の子ではなく、令和の子になれることになった。 胎盤は低置からあまり動いておらず、まだまだ微妙なところである。 かえるくんと私が無事なら何でも良いとか口では言いながら、6月下旬ごろに安産の経膣分娩がしたい、というのが私の願いである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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