まいばすけっとで売っていた「焼きドーナツ」というお菓子がとてもおいしかった。
ドーナツ、というよりはスコーンといった感じで、小麦粉が砂糖と一緒にぎゅっと焼き上がっている。 でも齧るとその破片を落とさずに食べることが難しいほど、ほろほろして。 いつかにもらった「ミルクせんべい」のような仄かな甘みのやさしさも詰まっている。 パンでもクッキーでもうどんでも、小麦の小麦感がするものが好きだ。 口の中の水分を持っていかれるような小麦のお菓子が好きな友人もきっと好きなはず、彼女の食育方針の縛りがきつくなければもうじき1歳の赤ちゃんも一緒に食べられるかもしれない、と今度会うときのために二つ買ったけれど、友人に会うまでに私はこれを食べずにいられるだろうか。 親株から切れてしまって水差ししておいたミントが新しい葉を芽吹いてきた。 いまいちずっと元気がなかったのだけれど、部屋の環境に根付いてきたということだろう。 しかしいったい、水しかあげていないのに、何がどうして芽吹くなんてことが起こるのだろう。 葉緑素が光合成で云々という科学的な説明は付くのはわかるけど、なかった葉っぱが目に見える質量を伴った物質として大きくなってくるのは毎度びっくりするし、そのさまは何とも愛おしい。 ふと今気になって調べてみたけれど、プレクトランサス・アロマティカスという植物らしく、ミントに似た植物でミントではないらしい。 ずっとミントだと思っていた。 育ちはしないと言われたエアプランツも心なしか伸びた気がするのは気のせいだろうか。 二人の姪に会いに行くと、下の子は4か月になろうとしていて、夜以外はにこにことよく笑う。 お風呂上がりの赤ちゃんにまたおむつを逆に付けてしまって、いもうとに呆れられる。 テープを後ろから?テープは前から?、はて?、と泣いている赤ちゃんを前に私は平静を装いながらバグを起こす。 いもうとが「大きな栗の木の下で」を歌うと喜ぶよというので、3回通りくらい歌ってあやしてご機嫌を取り持つけれど、そのうちに私はその歌に飽きてしまって、きっと姪も飽きていた、何か他の歌、と思っても私には童謡のレパートリーが少なすぎるので、「アンパンマンマーチ」を歌ってみる。 それでも間が持たないので、iTunesから曲を流そうと、何かポップでリズミカルな、と咄嗟に出てきた小沢健二の「ラブリー」を流す。 姪はなんだかノッているように見えた。 お母さんを下の子に取られ、未だ釈然としない様子の上の子は寝転がっている私に「ソファー」と言いながら座ってくる。 とりあえず私はソファーになる。 子守りの助っ人をしているつもりが私がうつらうつら寝てしまうので、「おばさん寝ないで」と「おばさん寝てないよ」を繰り返す。 「おばさん今日ふーした?」 “ふー”とは煙草とのことで、姪は私が外で煙草を吸っているのを覗きに来る。 お母さんに怒られるので「ちょっとだけー、見るだけー」と。 誰が教えたのか、「たばこ」という言葉も知っていて、心なしか目をきらきらさせながら。 元旦の予定をけいこに聞かれたので伝えると、家族会議的なものにそれでは参加できないからね、と言われる。 夏もそうだった。 仕事の調整をしてわざわざ帰ったというのに、私が時間通りに駅に着くころ、もう終わったと言われた。 なんで大事なことを、私にはきちんと伝えてくれないのか。 いよいよ年の瀬の東京は気温が下がって寒い。 久しぶりにブーツを履いたら、めっきりヒールのある靴を履かなくなった私は、ウエッジソールのそんなに高くもないブーツで背がぎゅいんと伸びた気になる。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|