私は造語を作ったり、略語を話したりすることは苦手だ、という自覚がある。
自分が使う言葉について、どうしてこの言葉をチョイスしたのだろうかとか、どこからの影響でこの言葉を使っているのだろうかとか、そんなことが気になってしまうのである。 だから安易に作ったり、略したりできない。 無論ちょべりばとは言わないし、マジ卍とも言わないし、エゴサもしない。 セックスピストルズをピストルズとも言わないし、ブルーハーツのことをブルハとも言わない。 しかし、エレファントカシマシはエレカシだし、ミスターチルドレンもミスチルなので、そのあたりの仕切りは甘いものであるが。 かつ丼とも言うし、サラスパとも言う、後者は商品名か。 また、人の名前をあだ名で呼ぶことも得意ではない。 しかし、全員正式名で呼んでいるというわけでも全然ないが。 ところが息子が産まれてからというものの、私は息子のことを自分で驚くほどの呼び名を作り、それらを連呼している。 それどころか、育児にまつわるいろいろな言葉をぼんぼんと造語し、息子の可愛さに乗じて半ば狂ったように息子をあやしている。 それらはほとんど自ずと出てくるので、自分の中にそんな一面があったのかと今さらながら自身を新鮮に感じているのである。 例えば、おっぱいのことは「ぱい」。 例えば、息子が手をしゃぶっているのは、「手のおっぱい」で「手ぱい」。 例えば、おしりふきのことをいつかに言い間違えて以来「おむつふき」。 例えば、首やわきの下に溜まる垢を「ねりけし」。 例えば、寝ぐずりのことを「眠たみパニック」。 例えば、息子を片手で肩のあたりで担ぐときには「○○○(息子の名前)俵」。 例えば、私が物凄く積極的に息子をあやすことを「○○○狂い」。 例えば、息子がとても可愛い仕草を見せるとき、「すごく可愛い」で「すごかわ」、「劇的に可愛い」で「げきかわ」、「大きく可愛い」で「おおかわ」。 例えば、うんちをさせるために傾斜のあるところに寝かせるのを「うんちんぐスタイル」。 例えば、はなくそを取るときの私は「はなくそハンター」。 例えば、げっぷのときはリズミカルに「げっぷっぷ」。 例えば、袖と胴体と下半身の色が異なるロンパースを着ているときは「レゴブロック君」。 例えば、私が息子を過剰にあやそうとするのを「うざいおかあさん」から、「うざお」。 これは便利で、「うざいおとうさん」「うざいおじいちゃん」「うざいおばあちゃん」「うざいおじさん」「うざいおとうと」でも同様に用いることができる。 いもうとだけ使うことができないのが残念である。 そしてもっぱら「うざいおかあさん」に用いる。 他にも、おしっこやうんちが出て「すっきり」というのを「すっきし」、おむつがおしっこやうんちで重たいときに「ずっしり」というのを「ずっしし」と言ったりする。 これは「ばっちり」や「ぴったり」という言葉を方言的に「ばっちし」「ぴったし」という言い方を遊んで派生させている。 薬や保湿剤を顔に塗るときは「べたあ~べたあ~」と言うし、息子にキスしたいときには「ぶちゅう~」と言いながら果敢に近づいていくし、授乳時など体勢を回して変えるときは「ぐるりんちょ」と言ったりもする。 私も喃語を喋って息子と会話したりもする。 基本的に息子を取り扱っているときの私のテンションは高めであり、「うざお」である。 これらは外で使ったらやや恥ずかしいというか、聞いている相手がこそばゆい感じがしたりするのだろうなと思うのだが、毎日毎日使っているものだから、誰かといてもほとんどこのまま出てしまう。 決して、育児の辛さゆえ少しでも楽しめるようにと積極的に編み出した言葉たちではない。 かつて私はお母さんになった友人たちを見て、子ども一色になってしまったなあと少し悲しい思いをしたことがあるが、今の私の方がかつての彼女らよりももっとそうなっているのかもしれない。 子どもにはさほど興味のなかった私だが、今の自分の溺愛ぶりに色々と思うところがあり、どこかしら羨む気持ちがあったのかもしれない。 不思議なことに、こんなに溺愛しているのに、私は息子に対してあまり血のつながりというか親子としての宿命や使命のようなものを感じない。 この子の一番近くにいて良いのが私だなんて何だか嬉しいなあ、とそんな感じである。 最近私よりも二カ月後に出産したブロガーのはあちゅうさんのブログをよく読んでいるのだが、同じ境遇の人というのは勝手に親近感が沸くものである。 育児は、メロメロとヘロヘロが交互に来ると言っていたが、まさに今日の私はメロメロが来ている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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