画像加工アプリを新しく入れた。
本当にいとも簡単に、裸のものよりも2,3割増しに見える画像が出来上がる。 すっぴんに化粧をして盛っているようなものだろうか。 セピアやモノクロにできることはもちろん、彩度や輝度も自由に変えられるし、水彩画風にもフィルムネガ風にもエンボス加工も一瞬で出来上がってしまう。 複数の写真をレイヤーとして重ねることも出来る。 スマートフォンひとつで。 すっぴんを知ったとき、「こんなだったの?!」と驚愕してしまうような原形をとどめないくらいのものも瞬時に出来てしまう。 もうすっぴんなんて見せられたものではない。 でもやっぱり、すっぴんの方が素朴な温もりが感じられて良い、という場合だってある。 それに、すっぴんで勝負したいという気持ちさえある。 ちなみに、私の実際の化粧が年と共に薄々になっていくのは、すっぴんに近い状態で勝負したいという理由よりかは日常の面倒は省きたいという理由の方が大きい。 あとは、一度足すともう引くことができなくなるのではないかという怖さも若干ある。 よく、まつ毛エクステをするとそれが取れると物足りなくなってまたやってしまう、ということを聞くが、そのようなものである。 だいたい、スマートフォンはスマートフォンでその内蔵カメラの初期設定やクセがある。 また、液晶の関係で、このカメラとあのカメラでは同じ赤でも違う赤に見えることもあるだろう。 ここでいうすっぴんが被写体そのものなのか、最初に撮った写真であるのかということもあるが、実際我々ひとりひとりが見ている色や質感が他人と同じであるかどうかさえも、もうそもそも全然全く分からないのである。 たぶん、おそらく、十中八九、「赤」という色の範囲を認識している場合、多くの人がそれを「赤」というだろう。 その中にも、「深紅」だとか「透明度のある赤」だとか「ピンクに近い赤」だとか、いろんな「赤」があって、人と人との間で共通していると想像する、ということ以外にはできない。 それに表現の方法ということも含めたらもう何がなんだか、という感じである。 全てのことに謙虚さを持たねばと思う一方で、そのことばかりを考えていると「もう何でもいいや」と思考は詰んでしまうしまう。 それを踏まえて、で、何なのだ、というところがきっとやっていくべきことなのだろうと思っている。 結局、その時、そのタイミングで、その技量で、その感性でしか何かを創ることはできない。 だから、少なくともその時点では、一番良い、と自分自身で判断し得るようなものが出来たら良い、ということを追う以外にやることはないのである。 久しぶりにいただきものの花の写真を撮って、エンボス加工の凄味に目を圧倒されてこれを選ばないわけにはいかず、更に色味と明るさを調整して、枠を付けて保存した。 書の写真だったらこうはできまい。 ある生徒さんが暑中見舞いを書いていて、100円ショップのはがきに先日行ったボラボラ島の海の写真を印刷して持ってきた。 私は全然コピー機などをうまく扱えないのだけれど、そして家のコピー機ははがきに対応していないのだけれど、これは良いものが出来そうである。 インクジェットのように艶感がないところが良い。 写真もプリントも裏打ちも書も印も、全部自分でできたらそりゃあ良い。 それはとっても大変なことである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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