けいこから”本物の”梅干しが送られてきたので、ここのところ毎日食卓に登場している。
けいこが漬けたわけではなく、おばが漬けたものらしい。 梅干しを漬けるというのはその世代、60~70代、あるいはもっと上の世代の人たちは毎年の風物詩のようにやっている人が多いように思う。 けいこが”本物の”というのは、梅干しを漬ける際に塩と紫蘇以外に使っていない、という意味であろう。 最近スーパーなどで見かける梅干しはたいてい所謂旨味調味料や鰹節や砂糖や蜂蜜が入っているものが多い。 ”本物の”梅干しよりもいろいろと入っているものの方が手間やコストがかかると思うが、それだけ”本物の”梅干しが食べづらいということなのだと思う。 ”本物の”梅干しを口にすると、思わず顔全体が歪んで、口が窄む。 ぎゅん、という梅干しの圧力が口の中だけでなく頭部全体に広がるような。 それでいて、すっぱいだけでない梅の実の味がじっくりと奥深く重たく伝わってくる。 威厳に満ち、荘厳たる存在感、さすが”本物”である。 幼い頃、私は好きな食べ物はと聞かれて「梅干し」と答えていた時期がある。 しかし、このような”本物の”梅干しではなく、駄菓子屋や梅産地のお土産屋で売っているカリカリ梅である。 祖父母が旅行に行くというと、必ずカリカリ梅をお土産に頼んでいたものだ。 そのおかげで祖母はヨーロッパに行く際にも、空港などでは孫のカリカリ梅を探していたらしい。 狂ったようにカリカリ梅を食べて、後に無性に水を欲していた記憶がある。 その名残なのか、今でもごく稀にカリカリ梅が食べたくなってコンビニで買うことがあるが、それも妊娠中を除けば半年に一度あるかないか、私はいつしか、めっきり梅干しへの情熱を失ってしまっていた。 しかし”梅干し”は、私の記憶を引っ張り出すとずるずると芋づる式に様々な記憶が掘り出されてくる言葉の一つである。 実家の庭には梅の木があって、私の物心つく頃には既に老木であったが、毎年身をつけていた。 祖母は、庭にあった梅の木の梅で毎年梅干しを作っていた。 「カリカリ梅に挑戦しただけどうまくできんわ」と言いながら。 なんでもカリカリ梅は塩分量が普通の梅干しに比べて塩分量が少ないのでカビやすいのだとか。 庭石に漬かる中間の梅干しを並べて干す。 陽をさんさんと浴びて皺がよって梅干しらしくなってくる。 一つ、二つ、未完成の温かな梅干しをつまんで食べると、やっぱりすっぱい。 そういう、思い出である。 3年か4年ほど前に祖母は93歳か94歳で死んだが、私は祖母が好きだったなあと思う。 「あんたなら何も心配いらんわ」「元気ならいい」そんなことをただ普通に、でも明確に言ってくれた人だったからだと思う。 死んでも生き続ける、というのはおそらくこのようなを言うのだろう。 髪を短くした。 基本的に誰にも触れてもらえないのだが、私は髪を短くした。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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