この大いなる疲弊をどうしてくれようか。
子育ての悩みは次々と勃興してくるのだが、ひとつ前に悩んでいたことが思い出せないほどに眼前の悩みがにょきっと聳え立って支配してくる。 最近の悩みと言えばもっぱら保育園への徒歩での通園である。 怒りに似ているけれど、膨満した疲労感背負った悲しみのような、やるせない気持ちでいっぱいなのである。 10キロを超えた活きのいい男児を制止したり抱えあげたりしているので、単純に疲労感が大きいのはある。 保育園の行き帰り、私は大きなため息をたくさんついてストレスを蹴散らすしかない。 これまで1年半ほど、息子について色々な悩みがあったと思う。 しかし先ほど書いた通り、ひとつ前に悩んでいたことが何だったかよくわからない。 他の何で悩んでいたかと思い返すと、もはや1年ほど前の離乳食問題である。 食べない、飲まない、噛めない、体重が減る、保育園の先生方にも心配され、区の発達支援センターにまで行った。 言い知れない悲しさと不安で鬱鬱としてベビーカーを押していたことが思い出される。 今ではすっかり、ということもないが、日々のカロリー摂取は問題なくできているので、この問題は解決に至った。 そういえば、夜なかなか寝ないことも問題ではあるのだが、寝かしつけはこちらが気を張って体力を使い続けないといけないわけではないので、まあそれほどではない。 今、あの時の食べない噛めないと同じくらいの大きさに通園問題が膨れ上がってきているように思える。 どうしてこんなにも悩みとして膨れ上がってしまうのか。 考えてみると、おそらく、「自分も他人も行きたい方へ行かせたいという私の中の大方針を、力でもってねじ曲げているから」ではないかと思う。 自分の中でうまく整合性が取れなく、矛盾しているのである。 あっちへ行きたい、こっちへ行きたい、あれを触りたい、あれを覗きたい、外の世界で息子にはやりたいことが山のようにある。 もちろん、登園時刻の制限などは知ったことではない。 もちろん、人の敷地や人の物であることも知ったことではない。 色んな意味でボーダレスの彼はきらきらしている。 丁寧に説明すれば少しくらいは理解するのだろうけれど、でもやっぱり、その場の好奇心や衝動が勝ってしまう。 双方有効な相談は現時点ではできないと言っても良いだろう。 好奇心や衝動は、こちらも大いに理解できる。 理解できるだけに、その好奇心をダメダメ言って力づくで引っ張って阻止することは、私の方だって泣きたい気持ちになる。 揚々としている人の行く手を阻むだなんて、そんなことしたいはずがない。 やりたいことを遮られて暴れる息子をがっしり抱え上げて連行するだなんて、したいはずがない。 私は自分がしたくないことをせざるを得ないことに、随分と疲弊しているようだ。 1年前のあの頃、作った離乳食やミルクをどれだけ捨てたかわからないが、あの時のやるせなさも、食べてくれないストレスだけではなく、作った食べ物を捨てるという行為がストレスを増大させていた。 なるべく食べ物を捨てたくない、という私の中の大方針に反していたからである。 そんなにストレスならば自分が食べれば良いと、食べたこともあるが、その時の自分の欲求にそぐわなければそれもまたストレスとなる。 語弊を恐れずに言えば、私は全てのことを自分のためにだけ行いたい。 傍から見れば誰かのために見えたとしても、結局のところ自身の選択である。 自分がやりたいことをやれずに息子のために時間を割くとしても、それは総合的な判断において、自分のためだと思うからそうするわけである。 私はこういった大方針を自分の中に置いているため、「あなたのためにやってあげた」というような言い回しを酷く嫌う。 私はこのことを口にするのは、この大方針が転換しない限りはないだろうと思う。 まあ子育てにおいてはその点においてひずみが生じやすく、不平不満や愚痴となって現れてくるのだけれど。 こういった理由で、私は現状の息子との行き違いに困り果てているのである。 無論、この社会のルールを知らない彼にはまずルールを教えるべきであると思うから、「人の家に入ってはいけません、人のポストを漁ってはいけません、道路に飛び出してはいけません」と話をする。 最悪、死んでしまうかもしれない危険性を見過ごすことは出来ない。 子どもに話すとき、「いけません、いけません」と言ってはいけません、といった育児の方法があると思うが、もうすでにあなたがいけませんと言っているのがいけません、と言いたい。 幸いながら、通っている小規模保育園ではいろいろと相談に乗ってくれる。 しかし、息子は保育園ではとても聞き分けの良い子らしいので、家庭用の息子の惨状はふんわりとしか伝わらない気もする。 元気が良すぎて大変だったことは後で良い思い出になるよ、ということでは慰まない。 渦中では、気が休まらないだけでなく、火事場の馬鹿力を出さざるを得ない状況でぎっくり腰になるのではという身体の方の懸念もある。 あふれ出る子育てのやるせなさを、こうして文章や漫画として吐き出している人が多いのは、そのやるせなさの行き場がないからであろう。 細かな子育てネタは、狭い子育て界の中で大共感を得て、そしてその中だけで消費されていく。 子育てネタが不満以外に、昇華して社会的に役立つ教訓のようになっていることが少ないように思えるのは、昇華させる側の力が足りないからか、社会にとってとるに足らないことだからか、どちらだろう。 念のため、少なくとも私は、このような不満は息子の可愛さによってカバーされている。 今日も息子は可愛いのである、嘘も誇張もなく。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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