平成最後の句会があった。
平成最後、平成最後。 私はこの一元号変革にまつわる一連の出来事を結構楽しみに過ごしている。 しかしながら、平成最後平成最後と何をするに付けると食傷気味にもなる。 平成の空気を缶に詰めた「平成空気缶詰」が1080円で売られているそうである。 要は缶詰の缶をそのまま密閉しただけのものだ。 売れるのだろうか。 物見遊山ではあるが、新天皇即位の一般参賀に行ってみたい気持ちもあって、しかしこの身重の身体で耐えられる混雑ではないだろう。 渋谷のハロウィンではないにせよ、妊婦が気軽に立ち寄れるところでもあるまい。 四月来るコーヒー砕くけたたまし むの字だけ書けぬむむむと入学児 おかっぱをおかっぱにして入学式 古着屋の匂ひのやうな春の夢 フリージア弾む香気やパパラパパ 丸眼鏡奥の瞳の目借り時 新社員位置の決まらぬ丸眼鏡 春雨は隠し通した嘘のごと 令和来る団地の歴史老桜 吹き通る思念の風や蓬餅 上から三句を投句したが、しれっと坊主(未得点のこと)を逃れることが出来た。 十数回くらい出席していると思うが、坊主であったことは今まで一度もない。 たぶん出席者は皆、坊主であることをそれなりに恐れていると思う。 たとえいくら手を抜いて作ったとしても、我が身から出た句に目もくれられないのはやはり哀しいものである。 どんなことも、創作する、表現する、ということは簡単ではない。 時間切れ、技術不足などで不出来に終わることもたくさんある。 この世のすべてが借り物だとしても、創作することでしか味わえない喜びがあると思う。 ここでいう創作とは、何か“作品”として形にすること。 創作にまつわる行動のうちどこまでが不随意であるかは線引きがし難いところであるが、不随意ではなく意志の力を働かせた何か“作品”を生み出すこと。 意図的、意識的であること。 日々の暮らしや様々な関わり合いにおける言動も、ひとりの人間が成していることであるが、私が思う創作には含まれない。 暮らしの一部として創作する、何も考えず自然に任せて創作する、「私にとって墨と筆で字を書くことは息をするのと同じことだ」、というような言い方があると思うが、私としてはあまりピンとこない。 そんなことがあるのだろうか、と疑問にさえ思う。 創作は何かしら、立ち向かう、という要素を含むと思う。 立ち向かう先は他人や社会であることと同時に、というかそれそのものがまさに自分自身である。 私が私を観察することにおいて、創作はとても有効な方法である。 その一歩を踏み出すのは慣れていないと難しいことだという実体験もあるが、誰もが創作の喜びの片鱗くらいは知っているものだと思う。 一方で創作は面倒でもある。 すなわち、自分自身が面倒であるとも言える。 書きたくてたまらなくて書いていると思われがちだが、勿論時と場合によってそういうときもあるのだが、案外そんなときは多くはない。 面倒が伴うからである。 ではしなければ良いではないか。 と思うのだが、創作がとりあえず完了したところのひとかけらの喜びは、人生において本当にささやかであり且つ最上級である、ような気がする。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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