今日は土曜日だが、夫が出勤。
私も片付け仕事がたくさんあるので、息子は保育園に行ってもらうことにした。 土曜保育はひと月に一回も使わないけれど、土曜日に保育園が開いていてくれるということは心強い。 もし今考えている幼稚園に行くとなると、それは全くなくなってしまう。 忘れていたわけではないのだけれど、転園する保育園幼稚園探しの熱波は一旦去ってしまった。 それなのにもう10月になろうとしていて、10月3日にはその幼稚園の入園説明会まである。 どうしようどうしよう、と考えれば考えるほど決断は重たく、しかも時間も迫っているため焦りを感じている。 なるようにしかならない、というのはいつだってそうだけれど、そうやってある意味投げやりになるにはまだ少し早い気がする。 とにかく、息子を連れて園見学に出向かなければ。 雨降りの今日、息子を抱っこ紐に括り付けて傘をさして歩く。 私も息子もご機嫌で、「おかあさんだーいすき、おかあさんかわいい」「いちくんだーいすき、いちくんかわいい」と二人で言い合いながら、むふむふと笑いながら歩く。 抱っこ紐に入るにはやや大きすぎるほどで、確かに重たいのだけれど、こうして息子と密着してお散歩ができるのもあと少しなのかもしれない。 こうした良い方向のセンチメンタルは、心に余裕があるときにしか発生しない。 子育てをしていて思うのは、子どもと向き合うときの感情が黒か白かになりやすいということだ。 子どもにイライラしているときに、「靴をおかあさんはかせてだなんてもしかするとあと1年もないのかな」なんて思うことが少しも出来ない。 こうして落ち着いた状態で、後から振り返って考えてみれば、「甘えたいときもあるし、相手をしてあげれば良いじゃない」と当たり前に思うのだけれど。 逆に、互いがご機嫌なときには子どもにイラつくという感情を思い出すことさえ難しい。 こんなに可愛い子は何をしたって全て丸ごとを私が愛するよ、と女神のような気分になる。 子育ての渦中というのは魔物が住む。 街中で子どもにイライラしているお母さんを見かけることがあると思うけれど、どうか慈悲の目で見守ってあげて欲しい。 もちろん子どもに対しても、だけれど、お母さんに対して他人がそうしてあげることで、お母さんのみならず子どもも正しく救われるだろうと思う。 何だか私が子育ての疲弊感に苦しんでいるような文章になってしまったが、自分が子育てをするようになって見えるようになった世界は確かにあって、私も知らない誰かのほんの些細な手助けになれればなあと勝手ながら思うようになった。 隣人との関係が希薄と言われる都会で、通りかかった誰かに少しの共感をもらえたとしたら、大げさでなく一生語り継ぐような感謝を抱くのではないかと思う。 息子を保育園に送り届、その足でスーパーに買い物に。 帰宅して掃除機とスチームモップをかける。 スチームモップはやや面倒なので出番が減ってしまっているが、本当に床が清浄になるのでたまにはやりたい。 洗濯物を片付けて、トイレも軽く掃除して。 秋服を買ったので、クローゼットを眺めて要らない服を捨てる。 ひとつ買ったら、ひとつ捨てたい。 ふたつ買ったので、二つ捨てた。 そして捨てる前に服を切り刻む。 綿のTシャツなど捨てるときはフライパンに残った油や、こぼれた何かを拭く用に適当に切っておく。 布としての御用を全うさせて捨てるのはとても気持ちが良い。 つるすべになった床も見ながら、鉄瓶でお湯を沸かしてお茶を淹れる。 さあ、たくさんやることがある。 のに、こんな長文をつらつら書いている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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