日当たりが良過ぎる私の部屋は、夏好きな私に少しの夏の不安を抱かせた。
強い直射日光が好きそうな多肉植物をベランダに出す。 私はこの日射しに当たっていたら湿疹ができてしまうと思いながら、多肉植物の緑はつやつやに輝いていた。 こんな洗濯日和な日に洗濯をしないわけにはいかない。 久しぶりにベランダに洗濯ものを干すと、タオルやらTシャツやらが風に揺れた。 「揺れる洗濯物を眺めるのが一番の幸せ。そうやって暮らしていきたい」と私は大学生の頃、声を大にして言っていた。 そんな類のことを、実際に文字通り喚いていたわけではないにせよ、勢いとしては本当に喚いていた。 ついでにそんな午後に香り高い紅茶でも飲みたい、とも言っていた気がするけれど、私はあまり香り高い紅茶が好きではないと気づいたのはここ最近のことだ。 「晴れの日に洗濯物を干して、それが風に揺れているのを見ると100%の確率で幸せになれる」とでも思っていたことは、自己暗示が過ぎるし、あまりにも自分のことを見くびり過ぎである。 無論今だって、こんな晴れの日に洗濯をして、洗濯物が揺れるのを眺めるのは結構高確率で気持ちが良い。 それは今の私がブルーハーツを聴いて結構高確率で楽しいということとほとんど同じだ。 ただそれさえあればオールオッケーというふうには思えない自分の存在を今は認識している。 まあでも、もちろん機会とタイミングが合えば、晴れの日に洗濯物も干すし、ブルーハーツも喜んで聴く。 5~13巻しかない「まんが道」を借りて、全巻にして返す、という約束だったので、不足巻を買い足して、ついでにぱらぱらともう一度読む。 バラで買うのに都合よく安価で買えそうになかったので、全巻を買った。 全巻にして返したら、5~13巻が私の手元に残る。 奇妙なことだけれど、借りなかったら読むこともなかったかもしれないから、借りた意味は、ある。 「まんが道」は藤子不二雄Ⓐによる、藤子不二雄として活動していた藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐの2人の自叙伝的漫画だ。 満賀道雄と才野茂が、ただただまんがという道に純粋な気持ちで進んでいく。 しかし彼らは仙人のように俗世から距離を置いているわけではなく、狂ったような天才であるわけでもなく、当然ながら色んな日常のストーリーをもって進んでいく。 普通に家族があって普通に会社勤めをしたりして、俗的な世界に限りなく普通に身を置いているにも関わらず、本人たちはその俗っぽさとはかけ離れているように思えた。 彼らの我を真っ向から通し押し進んでいくということや社会や周囲の人間に対して反抗するようなことは全然なく、日々の出来事に素直に無垢に相対している。 それはおそらく、まんがという道にとてつもなく謙虚に、そして少しの疑いなく進んでいるからなのだろうと思う。 ただ周りの見えない馬鹿ということもなく、あまりにも、透明なのである。 夢を追いかける熱い物語ではあるものの、「キーチ!!」や「宮本から君へ」のような燃え盛る火の玉みたいな様相ではなく、熱せられた鉄球のような感じのする漫画である。 また、とても透明な感じが先に立つ感じがして、何だか心が洗われたような気分になった。 そして、改めて、2人で漫画を描くというのはどういうことなのか、とても不思議に思う。 「北斗の拳」のように共著でもストーリーと作画の担当が分かれているのではなく、ストーリーのアイディア出しを2人でして、ページを区分けして一つの作品を描いていたこともあるようで、どうして絵の統一感と一貫性が何の違和感もなく在れるのか本当に驚きである。 一人の人間が筆致を使い分けることは可能であると思うけれど、別々の人間がそのトーンを同じくすることというのは何だか想像しがたい。 彼らの漫画は、この感じ、あの感じ、ということの記号的(絵的)表現がとても鮮やかだと思うけれど、それは2人で生み出しているのだろうか。 絵を描く人であれば、何となくでもこっちはAさんのほうでここはFさんの方かな、などと分かったりするのだろうか。 例年4月も後半になれば花粉が終わってすっきり爽快となるのだけれど、そして今年もスギ花粉の終わりを何とはなしに一時感じたのだけれど、今年は5月に入っても身体がすっきりしなくて目や鼻の不調が残った。 「ヒノキは違う」と常々言い聞かせてきたのだけれど、ヒノキ花粉にも反応している気がしてならない。 それもようやく明けてきたように思うのだけれど、それがホルモンによるものなのかが時期的に判別がつかない。 とても今さらだけれども、アレルギー検査でも受けてこようか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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