私が妊娠した。
初めての妊娠である。 現在心拍が確認できた.妊娠3か月と少し。 このことをここに書き留めることをいくつかの理由でやや迷っていたのだが、自分に起こった出来事や考えや思考実験や身体実験についてを主に記しているこのブログにはとても大きなネタであるのでどうして書かずにいられるだろうか。 ということで、書くことにした。 妊娠初期というのは流産の可能性が最も高い。 流れてしまっては変に気を使わせてしまう人も出てきてしまうだろうと思っていたことが書くことを躊躇っていた最も大きな原因のひとつだが、まあそれも不可抗力的な自然現象だと思うのでよしとする。 そうなったらきっと私は悲しむのだろうと思うのだけれど、そのとき悲しんでいるということをまた日常として書けば良い。 どんなふうに悲しむのか、あるいはそれとはまた別の感情なのかも自分としては興味深いところでもある。 もうひとつ、この界隈のことは私以外の人をどうしても巻き込んでしまう話になってしまうので、取扱いに繊細さが必要であるということも書き記すに躊躇った理由である。 特に子どもの父親である人や、このまま順調にいけば生まれてくる子どもに、変な影響を与えてしまうのを良いことだとは思っていない。 さてしかし、変な影響とは何なのか。 誰かと一緒に生きている以上影響を与えないということは不可能で、身近にいる彼らが他の人よりも大きく影響を受けてしまうのも当然のことである。 私は私として思うことを少しの体裁を整えながらなるべくクリアに書き綴ることと、彼らが思うことが私と異なるかもしれないことを自覚して丁重に取り扱うつもりはあるので、許してほしい。 変な影響を与え合って生きていくしかない、といういささか変な割り切りをここで告白しているのは、既に書き始めてしまったからである。 しかし、妊娠が発覚したこの2か月間のどこから書き記せば良いのか。 既に風化しつつある感覚や思いが何だかもったいない気がするのが、長年のブロガーとしてはある。 とりあえず、旅日記のように最初から振り返ってみることにする。 そもそも私が妊娠を望んでいないと周りの友人たちは思っていただろうと思う。 声高らかに子どもが欲しいと言ったことはただの一度もないはずだ。 私自身もそのことについて特別には考えないようにしていた。 あるとき子どもの父親になる人から「もし可能ならばその景色を見てみたい」と言われて初めて私は自分のこととして、且つ眼前のこととして、直ぐに来てしまう明日のことのように、思いを巡らせてみた。 私は自分の心の答えを案外すんなりとキャッチしていたのだが、逡巡する時間を表面上の私は必要とした。 あれやこれができなくなる、自分の時間がなくなる、お金がかかる、とにかく大変になる、そんなデメリットたちは別に消えるものではないのでそれを押し込める猶予期間だったのだろう。 あと、無論妊娠できるかどうかは分からないということが表面上の私が最も懸念していたことである。 それをひとたび望んでしまうと、それは忽ち目標に変わってしまう。 目標は勿論達成されることが望ましくて、そのための過程で努力を強いられることになる。 努力を精一杯して叶わないとなると、願ったり祈ったりもするだろう。 私としてはそんな自分に耐えられるだろうかということが大いに心配だった。 しかしながら少しの時間を要して、全てのデメリットや懸念事項を大半飲み込むことなく、私は「やってみたい」という当初の答えを口にするに至った。 妙なこだわりかもしれないが、「子どもが欲しい」という表現より「妊娠や出産や子育てをやってみたい」という表現の方がしっくりくる。 全ての物事に因果関係はあるだろうが、特別で過剰な意味づけをすることは最近の私にはあまり無いので、ならば「やってみたい」という私の思いを多くの疑問を携えながら尊重しても良いのではないか、そんなふうに思えた。 「人生はWANTで進むべきだ。MUSTではなくて。」とかつて言っていた友人の顔が思い出される。 長くなりそうなので一度記事を分けることにする。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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