句会があってそれを豆書にして書いたり、クロマニヨンズのライブに座間まで行って見知らぬ川柳詠みのおじいさんに話しかけられたり、お稽古ごとサイトのペン字・ボールペンレッスン部門で三年連続MVPを受賞したり、10か月ぶりくらいに美容院に行ったり、何だかいろんなことがあった気がする。
書こうと思えばそれをある程度細かな感じで記述することは可能だけれど、あまり気乗りしない。 ブログを書かないと落ち着かないということが10年くらいに渡ってずっとあった。 何か心に引っ掛かることがあれば何でも、とりあえず、ドラマ「カルテット」ですずめちゃんが言うところの”みぞみぞする”という状態になって、それを書き留めたい衝動に駆られてきた。 原因はなんだろうか、最近その感覚があまりなくなったことに薄々と感づいている。 文章を書きたい欲求が薄れてきたことは、何だか少し淋しくて切ない気がしている。 好きだったものが、情熱に燃えていた私の心が、その火を弱めていくのは怖い気すらする。 そんなとき、私はそれが好きだと自分である程度思い込ませることはおそらくできる。 やらないよりもやった方が、簡易的な安心感を得ることができる場合が多い。 けれど、もう燃料が少なくなっているその火を絶やさないようにもう一度燃え上がるように、扇いだりしてもその時一瞬だけ大きくなってもすぐに勢いを失うだろう。 もし私がたとえばブログをあまり書く気がしなくなったことを自分自身に隠しつつ無理をして簡易的安心を得続けようとした場合、それに気付いた未来からすれば時間や時代を失ったようなやりきれなさを感じるだろう。 ついでに、特定の曲を聴きたい!と度々酸欠状態にまでなっていたのが、もうイヤホンがめちゃくちゃに絡まるほど焦ってしまうほどに、全然そんなこともなくなっていることはもう結構随分前からである。 素敵な音楽の生演奏に埋もれたい、というのは結構あるけれど実際にはなかなか足が向かない。 花や植物への情熱が下がったのはもっとずっと前だ。 もちろん今だって音楽や植物は大好きだし日常的身近にいつもある。 これを書いている今でこそ、私はやはりキーボードをタイプすることが好きだし、考え事をしながら書き物をすることはやっぱり好きである。 火は全然潰えているわけではない。 けれども。 私はいつだって何かの衝動に駆られたい。 それは私の心が暇なのは困るし、何だかそういったアウトプット方向の行動というのは、していると私が保たれているかのような事実かあるいは錯覚かに陥って安心につながるのだと思う。 しかしながら、仕事ではないアウトプットというのは超自発的以外にはやる意味がない。 書きたいから書く、やりたいからやる、残念ながらそれ以上の理由は他人はおろか自分にもないわけである。 ただ、最近の私がすべてに無気力になっているという話ではない。 ブログから少し離れているひとつの理由は、昨年末から参加している毎日一書を書いてアップするというフェイスブックのサークルに参加していることにあると思っている。 何かしらの創作欲求というものがわりとひたひたと満たされているのだ。 お題は毎日翌日のものが出され、一字から短歌ほどの長さまでさまざま。 それを各人はどのような紙にどのような書体でどのような物を使って書いてもよい。 時に私はファミレスのペーパーナプキンやもらい物の酒の箱にも書くし、気まぐれに買った木の板にも書く、筆でなくとも爪楊枝でもマウスで書いたって良い。 限りなく自由な中で、毎日一作品をその場しのぎの有り合わせで作る。 大変だと思う一方で、自分の発想力の限界を見る良い機会だとも思うし、それなりのものができると嬉しくもなる。 稀に「これは良い」と自分でも思えるものが書けたりして、その評価がいつもよりも高かったりすればもっと嬉しい。 そういうわけで、トイレに「雲外蒼天」という小さなはがきサイズの書を飾っている。 飽きてしまうことは怖い。 でも、飽きてしまうことはどうしようもない。 今のところ、字を書くことは飽きてはいない。 くるりの「ジュビリー」という曲を思い出す。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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