息子の通っている保育園から依頼があって、パフォーマンス書道をやらせてもらった。
パフォーマンス書道というのは、観客の前で大きな紙に大きな筆でその場で揮毫するというもの。 きらびやかな和装をしたり、音楽を流したり、立った状態で壁面に書くといった演出もあるだろう。 実は、パフォーマンス書道の依頼は、私も何度か受けたことがある。 企業の新年会の催しだったり、ショッピングモールの小さなステージの催しだったり、地元から声がかかることが多い。 私はそれをことごとく断ってきた。 理由は、慣れておらず、簡単にできることではないから。 パフォーマンス書道は、普段はウクレレの奏者が、ギターのステージ演奏をお願いされているようなものだ。 それを全くやらない人よりはもちろん全然できるだろうけれど、そのクオリティは本人の納得には到底達することはできない。 ちなみに普段は人物を撮っているカメラマンさんが言っていたが、何か物を撮ってほしいという依頼は場合よってはお断りすると言う。 それはやはり、人物撮影と物撮りは全然違うから、という理由らしい。 プロのカメラマンは何でも撮れる、と私でさえも今まで思ってしまっていたのだが、申し訳なく恥ずかしい気持ちになった。 眼科のお医者さんにお腹が痛いから治してくれ、と言ったら眼科のお医者さんはきっと困ってしまうだろう。 「医者」というだけで眼前の医療が満足にやれるわけではない。 映画評論家にこの絵画の評論を頼む、と言ったら映画評論家は狼狽えるだろう。 「評論家」というだけで他ジャンルの芸事の評論が可能なわけではない。 もちろんそれらの専門家は、全くのド素人よりは数倍そのことに秀でていたとしても。 各プロフェッショナルはたいていの場合、狭小な専門範囲で生きているものだ。 と言うことで、普通の書道の作品を書くこととパフォーマンス書道は全然違うので、今まで一度も依頼を受けてこなかった。 しかし、何事も誰しも初めてというのはあるのだから、パフォーマンス書道の世界に足を踏み入れるという選択はできたはずである。 それでもやってこなかった。 それは自信が無かった、というのと、もう一つ、パフォーマンス書道なんて邪道だという意識もあったように思う。 書作品というのはパフォーマンスで創るものではない。 例えばパフォーマンス書道で書く前に祈りを捧げたりすることがあると思うが、それと書作品の出来栄えというのはほぼ関係が無いはずだ。 祈る行為は、ある書き手の精神統一の一つだとしても、多くの書家が祈りを捧げてから書くなんて聞いたことはない。 祈る時間は練習にあてた方が良いと思う。 書作品そのものに関わること以外のパフォーマンスは、その現場にいる観客を楽しませるために行うものだ。 私はそのパフォーマンス書道を否定しているわけでは毛頭ない。 観客が楽しんでくれるなら、美しい着物を着て、雰囲気の良い音楽を流し、壮大な生け花を飾り、10秒くらい祈りを捧げ、筆を振りかぶって大いに墨の飛沫を飛ばした方が良い。 やるならば、期待されるその役目を果たすべきだ。 とまあ、御託を並べるのはいくらでもできるのだけれど、今回、子どもたちの前でなら良いかな、とふと思い立った。 なぜか、やってみたい、とさえ思った。 やるならば、と気合いも入った。 木工用ボンドと墨汁を混ぜたボンド墨を使い、模造紙に書くことにした。 大きな書道用紙も持っているが、つるつるした洋紙の方が、ボンド墨の良さが出やすい。 100円ショップで模造紙を買い込んで、練習を重ねた。 文字のレイアウトを決めて、筆に墨を付ける箇所まで全て周到に計算した。 練習時期に来た生徒さんには、観客になってもらって本番通りに書くのを見ていてもらった。 本番、子どもたちが騒いだり走り回ったり邪魔しにきたり、そんな騒がしい環境でやることを覚悟していたのだが、皆水を打ったように、書き始めから書き終わりまで静かに食い入るように観てくれた。 心配していた息子も、皆と同じように椅子に座って私を見つめてくれた。 園に飾ってくれるという話だったので、家で書いた最も出来の良いものを持参していた。 本番で書いたものとその場で見比べて、やはり家で書いたものの方が良かったので、そちらを飾ってもらうというちょっとしたズルをした。 楽しかった。 早稲田大学の嘱託書家だった渡部大語さんのインタビュー後編が上がっていますので、是非ご視聴ください↓↓ <YouTube> 【書道家対談Vol.6 渡部大語】(後編)早稲田お抱え書家から現代アート作家へ <note> 現役書道家プロファイルVol.6【渡部大語】
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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