おでんにちょい足し、と書いてあったセットを何となく買ってみる。
えびワンタンと水餃子とがんもどきがちょこちょこっと入っている。 別におでんの大元が家にあったわけではなく。 おでんを新しく作る気もさらさらなく。 家に戻ってフライパンに水を入れて熱し、湯船くらいの温度になったところでおでんにちょい足し具材をぼとぼとと転がし入れる。 湯船くらいの温度で入れることが良いのかどうかは知ったことではない。 ただ、フライパンに水を入れてIHヒーターのスイッチを入れてから、着替えとトイレを済ませてきたらそのような状態だっただけだ。 いつからあるか分からない妹にもらったかつお粉を多めに入れて、塩もささっと。 冷蔵庫にあった豆腐をスプーンですくって入れ、えのきだけの石づきを落としてほぐして入れる。 沸騰してきたら灰汁が出たので軽く掬い取る。 料理酒は具材や塩などを結ぶ、あるいは繋ぐ役目があると思う。 酒を入れるべき料理で酒を入れないと、具材がそのままの存在で独立してしまって、味がなじまない。 多くの料理酒は米由来であると思うが、友人があるときに焼酎を料理酒代わりに入れていたことがあった。 料理酒でなくて普通の清酒であればそれに使ったことがあるが、焼酎を入れて同様の効果が得られるのだろうか。 「米の旨味じゃなくて、麦や芋の旨味が加わるだけで、作用は変わらないんじゃない?」と友人は言っていた気がする。 となると、料理酒で大切なことは減量よりもアルコールということになる。 確かに欧米の料理であればワインで煮るものもたくさんある。 そのときに友人と食べた鍋の味がどうだったかは残念ながら覚えていない。 そんなことがあったなと思い返しながら、ちょうど料理酒を切らしていたので、1センチほど残っていた焼酎をフライパンに全て注ぎ入れた。 湯気は焼酎の匂いがした。 その後、醤油とみりんも少し入れて味を調える。 いろんな作用が考えられるからよくは分からないけれど、それに、焼酎の作用が全然だめというわけでもないのだけれど、やはり普通の料理酒、清酒の方が良さそうに感じた。 普通の料理酒、清酒の方が味が具材と塩を結び繋ぎ抱き込んで、丸くなるような気がする。 まあ些細な違いではあるけれど。 器に盛って一味を振って。 元々、水餃子やワンタンの皮が好きなのだが、煮込まれたそれらはたまらなくてろんてろんになっていて気持ち良くて美味しい。 もしも腕のあたりに乗せたら、ぺたあぁと吸いついてくるような薄くて柔らかな皮が好きである。 熱いし、食べ物だし、腕のあたりに乗せるなんて機会はやってこないと思うけれど。 今冬はごった煮をあまり作っていない。 けれども時折ごった煮らしきものを作るとブログを書きたくなる。 もう少しまともな日常がないのか、と思う反面、これが私のまともな日常なのである。 「生まれながらのごはん狂」というフードエッセイストの女性を取り上げた番組を観た。 「美味しいだけがごはんじゃない」「まずくても楽しい」、というのはとても共感するところがある。 もちろん彼女だって「まずいものが食べたい」ということではないだろうが、作る、食べる、ということの周辺エピソードを取り込んだ“食”には、人生を抱き込むくらいの大きさがある。 そんな食への敬意に満ち溢れた人だった。 私は「生まれながらのごはん狂」と言うほど食に時間を割けないけれど、食べる、という実に多面的で巨大な行為には大いに興味がある。 先日高校時代の友人とクロマニヨンズのライブに行き、また違う先日大学時代の友人が子どもを連れて自宅までやって来た。 あの頃のように、延々延々と喋っている時間は今はお互いにないけれど、それでも気の置けないお喋りは最高級の遊びである。 出会った頃、何を嗅ぎ取ってお互いが近寄ったのか、たぶん発する言葉に自分と似たニュアンスを感じたからだと思う。 それは言葉そのものの記号的意味だけではなくて、その人の言葉を扱う姿勢だったり、物事の考え方の方向性だったり。 言葉だけがコミュニケーションではないけれど、でもお喋りが何らかの障壁無く滞りなく交わされるときはすごく嬉しく思う。 そのことにやはり価値を置いていたのだなあと、改めて認識する。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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