朝、と言っても時刻的には昼過ぎから、せっせせっせと料理をする。
先日不意に換気扇の掃除を引っ越し後初めてやったのだが、油のべとつきをすっきり落としたのでこれで料理をしなければ換気扇が汚れることもないのに、と頭によぎった。 オイルサーディンとキャベツのトマト煮込み、お味噌汁、ひじきの煮物、ついでにきのこ類をばらばらに分けて冷凍。 同時に、ブランチにとパンを焼いて、コーヒーを淹れる。 だいたい似たようなものしか作らないし、見た目にさほどこだわらず雑にやるので、私の料理をしているスピードというのはおそらくかなり早いのではないかと思う。 作るものは煮物系が多いので、味を含ませるために一旦9割方完成させてあとは数時間放置しておくことが多い。 お湯を沸かしたり、ざるに上げたり、複数の食材を切ったり、様子を見ながら調味料を入れたり、洗い物をしたり。 冷蔵庫の中身と使うべき食材の優先順位と、料理の手順と、少ない洗い物にするための合理的手順と、あれこれと考えながら目の前のタスクをこなしていくのは嫌いではない、好きである。 私は、大方筋書きが見えているある程度煩雑な事柄を段取りよく片づけていくのが好きである。 一方で大方の筋書きが見えていないものに向かうことが苦手である。 例えば私の見知らぬシステムや仕組みを用いて、現実に起こっているある課題を解決する、など。 無論、無いものを有るようにするような、新しいシステム開発や仕組みづくりには向いていない。 当然ながら初めてのことは皆知らないのだから知る努力をするしかないのだが、先が見通せないストレスが先立ってしまうため、あらゆる新しい物事への取っ掛かりが非常に遅い。 その代わり、見知ったシステムや仕組みを使って物事をより潤滑に進めていくことは比較的得意であり、行動も早い。 ところで、美味しい料理を作りたい、という方向性を持たないわけではないのだが、やはりコストパフォーマンスやかかった時間や費やした労力や味などの全ての合理的総合点に向かってしまう。 多種多様な犠牲を払っても美味しいという高得点を取りたい、のではなく、なるべくあらゆる犠牲を少なくした上での最大得点を取りたい、のである。 だから、美味しさのみに精魂費やした丁寧且つ完璧な味や美しい見た目にはならない。 だいたい、家庭料理とはこのようなものだろう。 もっとにんにくを丁寧に弱火で香り出しすれば、もっと玉ねぎを細かく刻めば、肉の下ごしらえをきちんとすれば、煮込み過ぎないようにもっとよく観察していれば、もっと複数のスパイスを混合すれば、もっと器にもこだわって彩りを考えて盛り付ければ、もっともっと良くなれる可能性はあるのかもしれない。 これらの把握できている改善点については次の回からもう実践すれば良いだけだが、それも面倒が勝ってなかなかできない。 未だ把握できていない改善点もそれはもう数多くあるだろうから、勉強と練習をすればもっともっと良くなれるだろう。 しかしながら、総合点を上げることにはこれからも鋭意精進していきたいとは現時点で断言できるが、日常の料理にあらゆる総合値を考えずに向かっていくことを私はしないだろうとも断言してしまいそうである。 この傾向は私の多くの行動に現れているように思っていて、この合理主義を時に愉しみ、時に辟易とする。 もっと無駄をたくさんたくさんしても良いし、それはきっと無駄ではない、そんなことは経験上知ってはいるのだ。 しかしながらこと料理において言えば、出来たものがどんなに美味しくても食べてしまえば記憶の中にしか残らない、という切なさを嫌に思っているのかもしれない。 目に見える成果物にしがみつきたいのだろうか。 たぶんそれはとてもある。 夢中になった結果の達成感のみならず、何か成果物が欲しい。 できれば後々にもその成果物を眺めていたい。 書も俳句も、私の日常にあるこれらは成果物を眺めることができる。 歩くことやサウナ通いはダイレクトな体感が最大の成果物であるが、歩くことは歩数計を、サウナは銭湯スタンプを取り入れることによって成果物を可視化してきた。 これはおそらく所謂執着のひとつなのだろうなあと思う。 ダイレクトな体感や何かを夢中でしているその時間のみで満足できないのは、どうしてだろうか。 簡単に思いつくこととしては、人に共有できる形にすることで得られる誰かの反響を欲していて、それはすなわち他人とのコミュニケーションを欲しているということである。 となると、目に見える成果物に執着しなくなったとき、私は他人とのコミュニケーションを必要としなくなるのだろうか。 あらゆる執着を解き放っていくことは良いことだと思っているが、これはそういうことなのだろうか。 もうひとつ、私が可視化できる成果物にこだわるのは、自分の前進の軌跡を自分で確認したい、ということもある。 去年よりも、一昨年よりも、五年前よりも、上手くなっていたいし前進していたいし賢くなっていたい、そんな風に思っているのかもしれない。 成長呪縛、確認願望といったところだろうか。 まあこの執着は持っていても良い気がするが、何のために上手になるか何のために賢くなるかというのはやはり一部他人が絡んでいるところがあるように思うから、厄介にも感じている。 どうやら、他人の目を気にせずに生きることを良しとしたくて、その他人と上手くコミュニケーションを取りたいようなのである。 私が料理に多量の熱量を注げないのも、入り口の入り口だけ齧った音楽に夢中になれなかったのも、心の深層において、目には見えず、瞬間的に消費されてしまうことが短絡的に嫌だったのかもしれない。 料理も音楽も、もっと深堀りできれば大いに成果物もコミュニケーションも望めるだろう。 夢中になれるだけの参入障壁を越える気概がそれらに対して向けられなかった。 事柄は何でも良いから、合理性を重んじずもっと夢中になれる凝縮された無駄をしたい、とは常々思っている。 この場合の無駄というのは、他人から見たら無駄ということだからわざわざ無駄をしたいなんて言い方しなくても良いのかもしれない。 夢中になりたい、で十分か。 そもそも、夢中になるということは自己自然発生的なものなので、他人が強いることができなければ、自分でも夢中になることに向かうことは難しい。 積極的にリラックスに向かうことが難しいことと同じようなものだ。 ところで、青森の方からいただいた青森産のにんにくが素晴らしかった。 りんごの切り口のように瑞々しく、熱してみると決してくどくはない爽やかで清潔且つ屈強な香りが立つ。 いつかにジョーマローンの香水を形容したときのあの感じに似ている。 にんにくは料理に魔法をかけられる。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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