金木犀が香っていたのは2、3週間前のまだ蒸し暑さの残る日々のことだったと思う。
甘ったるい香りが湿り気に溶けて、脱ぎたいのになかなか脱げない濡れた水着のような鬱陶しさと、それとともに訪れつつある秋への憂いを思った。 そして今日、急に穴に落ちたみたいに冷たくなった空気は、金木犀の香りすらもうしなくなってしまった。 いつの間にか、あんなに寒かったはずが夏になって、あんなに暑かったはずが冬になろうとしている。 会社員で勤めていた頃よりも今の方があれよあれよと季節が進んでいく感じがする。 今年は気持ちの良い天高き秋晴れの日をさっぱり味わうことなく、このまま冬になってしまうのか。 いやいやまだ秋だ。 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ 夏ハシャンデリヤ、秋ハ灯篭 コスモス無残 秋はずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度を整えてせせら笑ってしゃがんでいる。 これは既に提出した展覧会の作品で書いた太宰治の「ア、秋」の一部。 いろんな作家の本を読むと、あぁやっぱり上手いなあ、と、どんな目線から物を言うのかということを棚に上げて、一応言葉を紡ぐのが好きな者の1人として手放しで感心したりする。 文章が大いなる売り物になるほどの価値を持ち得ているのだから当然とも言える一方で、私はそういった些細な言い回しにいちいち足止めを食らって敬意を表するとともに、少し、あぁやられた悔しい、と思うこともある。 こういうことは私が本をなかなか読み進めることが出来ない原因の大きな一つでもある。 夏が好きとずっと答えて生きてきた たかじ これは俳句仲間のたかじさんの句であるが、私にもこんな類の経験が継続的にあって、作者の本当のところの意図はどうかは分からないけれど、こんなことではだめだ!、と思ったのが私の感想である。 夏は確かに好きなのだけれど、夏の猛暑で身体が疲弊するのも確かでそのこと自体は暮らしづらい、過ごしやすい気温の秋の方が良いに決まっているではないか、と最近ようやく気付いた、というか、受け入れた。 夏の夜のクーラーの効いた寝室のすべすべのシーツ。 「今日も暑くなりそうだ」という夏の朝に飲む一杯の水。 汗で湿った身体を引き連れた何かの帰り道で食べるガリガリ君。 うだるような暑さの昼下がりの部屋で扇風機を回して寝っ転がること。 結局のところ、好きなのは「夏の涼」なのであって、まあそれも「夏が好き」の一環ではあるし、こういったスパイス的な夏の楽しみは大好きだ。 しかし、炎天は苦手だし、汗がうまくかけないのは辛い。 これまで発言として「常夏に住んでも良い」と言うほど夏好きだと豪語してきたのは、秋とか春とか、生温いことを言いたくなかったという心情が少なからず含まれているのだ。 しかもその心情を本人が無自覚で持っているわけだから、もう本当にタチが悪いし、これはある種の絶望とも言える。 一体誰に対しての自己演出だと言うのだろう。 こうありたい、という自己イメージは自覚的であるならまだしも、無自覚的捻れは早いところ解いてしまいたい。 ここ数年で少しずつ捻れが正常になってきているような気がするけれど、しかしながら、まだまだ無自覚的捻れは私の中に存在するような気がする。 「急に寒くなってびっくりですよね」 レッスンを行うとき、どちらからともなくやはり天気の話から入ることが多い。 世間話に天気や気温の話はうってつけで、みんなが毎日何かしら少しは感じること、ちょっとは興味のあること、当たり障りのないこと、なのである。 アイスブレイクはいつだって必要で、お互いの心がほんの少しでもじわりと温まった方が筆滑りやペン滑りだって良くなるってものだ。 しかし、毎度天気の話も一辺倒なので、何か他の話をと思って、家でのレッスンのときは時折玄関に貰い物の香水をふったりすることがある。 明らかな香りは話題にされることが無きにしもあらずである。 自分は身体に香水をつけることが好きではないこと、洗濯柔軟剤の香りは好きであること、ルームフレグランスとして貰い物の香水を消費しようとしていること、花や花の匂いのこと、時にそれをわざとしていることであることを明かす。 実際に今まで3回ほど取っ掛かりの話として成功した。 しかし例えば男性が、「部屋、いい匂いしますね」というのは何だか別の意味を醸しそうで言いづらいということももしかしたらあるのかもしれないと想像はする。 それにこの話は、天気の話のように変化がなく一度きりでもう使えないので、毎々の取っ掛かり話としてはあまり適切ではない。 いつも、「しんにょうが上手く書けなくてキックボードにしか見えない」とか「“美”という字が昆虫の触角みたいだ」とか「私の書く字は怪文書みたいだ」とか「“友樹”が雑魚キャラになっちゃう」とか「“心”がせせこましい」とかいろいろと面白い表現をしてくれる生徒さんがいて、私も便乗して言ったり笑わせてもらったりしている。 その方が「先生と話するの楽しみにして来てるので」とポロリと言っていた。 他にも「今度レッスンの後、一杯飲みに行きましょうよ」とも度々言われるようになって、それは私を嬉しくさせる。 私は曲がりなりにも字や字に纏わることを売っているし、それが継続されることが私が食べていけることであるけれど、それがきっかけとなって自分が金銭の外の関係の窓口になれたことは嬉しいのだ。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|