久しぶりにジャズのライブに行く。
かつて数え切れないほどに飲んで喋った知人ギタリストのライブである。 今の私の在り方は、この知人がいなければ在り得なかっただろうと思っている。 物分りの悪い私にあの手この手で膨大な時間をかけて、それでも言葉にならないような輪郭のぼやけた、でも物凄く屈強で強固な何かを教えてもらった気がする。 私のロックンロールの体験はザ・ブルーハーツのロックミュージックだったわけだが、今私が書でやろうとしていることは限りなくジャズに近い、と思っている。 ロックンロールの精神を持ったジャズ、でありたい。 ちなみに、ロックというと、ノリが良くてうるさめでガチャガチャしていて青くて破壊的、そんなイメージがあるかもしれないが、私は今はそのような意味合いでロックという言葉を使うことはない。 ただおそらく、広い意味で反骨や反発ということは含まれる。 ロックンロールの精神が何か創作物に入ることが出来るとすれば、おそらく社会通念などに捕らわれない自分が地球上の一人の人間がいる、ただそのことを伝えるための要素であろうと思う。 その前に私のイメージでは、ロックンロールは、自分の中をまざまざと見せつけられること、という語釈をしているので、ロックンロールの瞬間というのはあくまで受動的なものなのではないかと今のところは考えている。 ジャズ、のことは細かいことがわかっている訳では全然ないのだけれど、「分解再構築」というところが似ているように思っている。 物凄くざっくりだが、ジャズはメロディとコードがあるだけで、あとは基本的に自由に分解再構築して進めて良いらしい。 楽譜なしでの即興自由演奏で前衛とかインプロヴィゼーションとかフリースタイルというのもあるが、限定されたメロディとコードを借りた表現においても、もう大変な多種多様の論理やテクニックによる表現が可能となる。 一方で私がやっているジャズ的な書も、言葉と文字というものがあるだけで、あとは基本的に自由に進めて良いものである。 ジャズ同様に、滅茶苦茶に見えるような形でやってコンテンポラリーなものもできるが、言葉と文字を借りることによって枠を限定し、分解再構築を試みるのである。 また枠があることによって枠からはみ出すことの意味も出てくる。 また、始まりと終わりがあること、大人の所業であること、自由な中にも善し悪しがあること、“卒意”が大切であること、これらの点も似ている。 特に、ジャズもジャズ的な書も少なくとも大まかな基礎技術はクリアしている必要があり、その中に意思や童心や勇気を入れていくところなど、やはり大人の所業であるところが私は好きである。 大きく異なるのは、ジャズは基本的に複数人での会話であるが、書は単独での独壇場であること。 これは物凄く大きな違いであると思うが、ここでは触れない。 息子を置いて出かけるのは忍びない気持ちもあるのだが、それでもライブに行って本当に良かったと思う。 初めて素面で聞いたジャズは、一音一音がクリアに聞こえたのだが、それは私が素面だったからなのか、演奏方法の違いによるものなのかは判別がつかなかった。 ただ、音楽って良いなあと思えることはまた振り出しに戻ったようでもあるが、そのようなことは表現物において大事な事なのではないかと思う。 書で言えば、理由はよくわからないけれども、何度も、日が経っても眺めていたくなるようなもの。 骨董についての書と卒意という点まで書き進めたかったのだが、息子はとっくに起きてしまっているのでここまでにする。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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