楷書の臨書をするのは息が詰まる、というより、実際に息が止まる。
呼吸をしてしまうと線がブレるから。 ”わたし”の気配を消そうと息を殺して書くのに、書いたものはどう見たって“わたし”がいる。 そしてそんなこんなあれこれ考えていると間がブレる。 臨書が重んじられる書道の世界だけれど、私は臨書をするのは好きではない。 けれど、沸き出でる新しいものがない場合には外から取り入れるしか方法がない。 まあでもやり始めたらやり始めたで、諦めたらダメだ!と、ひとり部活のような修練の時間は嫌いではないし、何かひとつの作品となったら、結果的に枚数で言えば一番多く書く。 それに、ああこうなってるのね、こんなふうにいくの、そういう手もあったか、これはストックしておきたい、などという発見はだいたいいつもあるのでそれはとてもとても楽しい嬉しい。 鹿島田にある「パン日和あをや」というパン屋さん兼カフェに招待されて初めての街をゆく。 ベッドタウンであるこのあたりはいくつもの高層マンションが建設中で、どれも日当たりが良さそうだ。 都心の公園とは違って、公園には子連れの母子がたくさんいる。 これからどうなっていくのか知らないけれど、まだまだ空の在り処を大手を広げて確かめる余裕がある。 料理は、誰かがそれなりに真剣に作ると人柄がとてもにじみ出る。 同じ素材を使って、尚。 化学調味料も時にとても好きだけれど、私はやっぱりどこか“やさしさ”の染み出た素材味の料理が好きで、そんなものを食べると不意に泣きそうになることが最近たまにある。 先日食べた焼き鳥とかカレーとかはそんな味だった。 素材は大切だけれど、素材そのものだけでは特に何も起こらない。 塩ひと振りでも、サッとあぶるでも、異素材を組み合わせるでも、8時間煮込むでも、絶妙な加減というのがある。 絶妙な加減、というのは人によって違うと思うけれど、「オレの絶妙」といったその加減で、誰か他人が感動することができたのだとしたらなんだかそれはもう嬉しくて切なくて泣きたくなるようなことだ。 「あをや」さんの料理は、ぎりぎりまでシンプルで、そのシンプルにほんの少しだけ店主さんの魔法が掛かっているかのような感じがした。 無論パン作りの工程が、ほんの少しの魔法、なんてことは毛頭ないであろうけれど。 いろんな味が溶け合った温かなクラムチャウダーに、アボカドとクリームチーズの厚みがベストなサンドイッチ、甘い甘いこっくりとしたホットチョコレート、絵みたいなかわいらしいクロワッサン。 クロワッサンは、おそらく一般的なものよりもバターが控えめで中がふわふわ、それでも軽すぎずにお菓子ではなくてパンを食べている感がある。 おいしい。 料理だけでなく、お店全体の世界観が店主さんの絶妙なバランスによって成り立っていた。 小川洋子の小説に出てくるかのような、少し古くなった水彩画のようなお店。 シンメトリーや対、ということが好みではないのだろう、飾り物など一つひとつに独立感があってアシンメトリーになっている。 しかし不思議な統一感ですべてが絶妙なバランスで結ばれていて、その不思議な統一感こそが店主さんのお人柄なのだと思う。 これは私の好みかもしれないけれど、食器類はもっとばらばらでもいいのでは、という気もした。 まあメニューが変わることもあるだろうから、汎用性を考えてのことだとも想像できるけれど。 スコーンとコッペパン、マロンパンを買って帰る。 夜、財布とスマートフォンをポケットに入れて外に出る。 できることならいつだってバッグを持ちたくない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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