今日は嬉しいことがふたつあった。
ひとつは、「字を書くのが楽しくなってきました」と聞いたこと。 もうひとつは、カート・ローゼンウィンケルの日本公演にお誘いいただいたこと。 字なんて読めればいい。 記号としての字は、自分あるいは他者が解読可能であることでその機能は一旦完結している。 その時点は、皆平等であり、フラットである。 以上、だ。 けれども、なんだかそれが美しい方が良いと思う人がいて、それが“アート”のようなことであってもなくても別にどちらでも構わないけれど、ただ別に特にやらなくても良いことに個人がかけがえのない大切な時間とお金と労力を費やして、少しでも満足を得られることは、ひとつの人生の膨らみなのではないかと思う。 それが字であっても、人に魅せるのが恥ずかしいという理由から端を発していても、音楽であっても、穴掘りであっても、何でも良いのだと思う。 私のところに来る方々は、自分の字についてコンプレックスを持っている方が圧倒的に多い。 一般的に字はとても社会性が高いものだから、人からバカにされそうで恥ずかしい、といった思いを抱いてやってくる場合が多々見受けられる。 私は初回で「字が上手い必要は特にないと思います」と全員にはっきり言うことにしている。 それを言うと、「?」という顔を目の当たりにすることも多いし、たとえその時にそれがどういうことなのか上手く伝わらなかったとしても言うことにしている。 実際に私は本当にそう思っているからだ。 字なんて読めればいい。 そこから、「こうした方がきれいに見えない?」「あー見える!」ということを積み重ねていく。 なんだか共通項として“きれい”ということは存在しているのだろうし、その”きれい”を自分で体現することができたらそれは嬉しいだろう。 「書くことが楽しくなってきた」、それはきっと、もっともっと”きれい”に立ち会える瞬間を本人が今後も増やしていくことができるであろう兆しなわけである。 脳科学者の中野信子さんの言葉を借りれば、「脳からの報酬」が少なからずあったのだろうし、それを続けることでもっと報酬が得られるかも知れないわけであって、そのこと自体は誰もにとって望ましく好ましいことであろう。 生徒さんそれぞれがどの地点を“きれい”と認定するのか、私には分からない。 ただ、その“きれい”に本人が立ち会えるサポートには熱くなってしまう。 別に字なんて読めればいいのだけれど。 そして、もっと言うと私自身がその「脳からの報酬」が欲しくて書をやっているに過ぎないのだけれど。 もうひとつの嬉しかったこと、カート・ローゼンウィンケルについては私は実は彼をよくは知らない。 とても有名なジャズマンであることと、大方どんな感じの音楽をやる人であるかと何となく知っているだけだ。 誘っていただいた理由はまあ察するに難くないのだが、とにかく、誘ってくれた、という事実は私を嬉しくさせた。 テレビドラマ「カルテット」が面白い。 話の内容は特にどうということはないのだけれど、紡がれる会話たちが、またそれを喋る俳優たちが。 いつからか、私は登場人物の過去のトラウマなどからくる人格形成やら何やらに、さして興味がなくなった。 ないわけではないけれども、作品が作品としてのコンテンツそのものに興味がある。 会話自体がが面白いのだ。 一種の社会風刺なのだろうと思う。 事細かな個人的事情はそれぞれにたくさんあって、しかしながらそこから見出される汎用性のある格言めいたこと、あるいはそこから派生する考え事が好きなのである。 毎日寒い。 しかしこれが進むと花粉が飛ぶ。 既に微かな気配を感知しつつあって、今年こそは度の合っていない眼鏡を作り直しに行きたい。 コンタクトレンズは面倒だけれど、眼鏡も邪魔だ。 久しぶりにごった煮をこしらえる。 どうにも野菜不足な気がしたからだ。 小松菜とえのきと豚肉とだし粉と酒と醤油と塩とはちみつと、そう言えば、「はちみつ」くんという男の子が姪と同じ保育園に通っているそうだ。 豚肉はやっぱり美味しい、ごった煮は母の味ではなく私の私による我が故郷の味で、心から美味しい。 訳あって床に置いてあったみかんを不意に踏んづけてしまった。 全体重をかける前に気付いて、ぐしゃり、とはいかなかったけれど、薄皮でぎゅうぎゅうに中身が詰まったみかんは、ぶちゅっ、と弾けた。 口の中でミニトマトが弾けて、口から中身の汁が飛び出てしまう感覚に酷似していた。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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