そこら中で夏祭りをやっている。
地元定着感が少ないように思える都心の街で、さらしを巻いて法被を着た人たちが沸いてくるのは、私がこの辺りのことを単に知らないだけなのかもしれない。 まあでも、地域コミュニティというのは何にしても昔から苦手なので、仲間に入れてほしい気持ちは特にない。 というのは、強がりなのかとちらりと自分を一瞥してみたりする。 和笛の音を聞くとやや切ない気持ちになる。 昔からあまりグループで行動することがなかった私は、今でも誰かと会うときは二人のことが多い。 3人や4人のときがあったとしても、それは特定のグループではなく、ピンの人間たちばかりである。 と思っていたが、句会の仲間や書の仲間は特定のグループがいつのまにかできていて度々集まっている。 私より20以上年上の方が多く、それぞれに皆書がうまい人たちばかりだ。 個展の話をしていて、ひとりの方は神戸やミラノで個展を開催したらしい。 また他の人も、グループ展などを積極的にやっているらしい。 個展。 自分の作品だけを並べて展覧会をやる。 個展、こてん、コテン・・・。 すごい人、がやることであって、遠い目でコテンに思いを馳せたことがないわけではない。 しかし全然現実味を抱いたことがない。 ましてや海外!なんて度肝を抜かれるほどの思いがする。 もちろん、海外でも書はある程度受け入れられるだろうとは思っているのだが、西洋の方々からすれば、東洋異国のモノクロアート!みたいな感じで見られるのだろうか。 書は言葉を扱っているので、その意味が分かった方がより面白いとも思うし、いや、そもそも書をやっていない人からすれば日本人だって書に何が書いてあるのかほとんど不可解なものも多いわけだから、そういう意味では変わりなく見られるだろうか。 日本人の書をやっていない人の書のイメージは、「敷居と格調が高そうで、修行をたくさん積んだ精神性の高いもの、ついでに言うと、何で記号である字をあのように字をくずす必要があるのか、読めない、分からない、自分には関係ない」というような厳かなイメージの反面、奇特な人を避けたいというような感情も抱きがちなのではないだろうか。 まあ事実、これは私が書を本格的に志す前に思っていたことなのだけれども。 字は日本人皆が扱えるものであるがゆえ、書において分解再構築する価値が分かりづらいのだと思う。 本当は、歌うことやギターを弾くこと、絵を描くことと同じなのだけれども。 だからそういった意味においては、海外の人々の方が記号の意味が分からない分、純粋な目線でそれを観てくれるのかもしれない。 どこどこの場所が1日1万円で借りられて広さの割には安い、などという現実感のある話をしながら、今一度自分が何をしたかったのかを考えてみる。 あるひとりの方が「グループ展やる?」と軽い感じで言っていた。 それは単純にとても楽しそうだし、いろんな費用や雑用を折半できる点では良いかもれない。 だが方向性がばらばらで、ちょっと喧嘩してしまうなんてことが起こりはしないだろうか。 最近、とあるレッスンを受けていて、何だかまた触ったことがないことに触っている感じがする。 あれ私こんなことやって良かったんだっけ、なんて思ったりして、それはそれでただ己の開拓不足であることには恥じなければならない。 でも有り難く受けている。 なんだかドキドキして心が浮つく。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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