秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者である。 これは太宰治の「ア、秋」という散文の一節である。 昨日今日とだいぶ涼しく、真夏を病院と家の中でワープしてしまった私には早すぎる夏との別れである。 愚か者でももう秋から逃げることはできない。 何年か前の東京書作展に私はこれの全文を書き、東京新聞賞をもらった。 それまで書のレースで公式に特別に良い賞を収めたことがなかったので、私にとってはこれが初めての特別に良い賞だった。 また大きな書を書ける環境を整えたいと思う。 あれやこれや、いろいろと書きたいものやその構想や草稿を思い浮かべている。 もちろん新しい構想はすぐには形にならないし、思い浮かべているレベルも雲ほどの輪郭しか持っていない。 おそらくその多くは気づかぬうちに霧消してしまっていることも多いだろう。 着手できたとしても、それがどう具現化していくかはやってみるしかない。 私は文章を書くときもそうだが、本当にぼやっとした書きたいことがあってそれを触り始め、だんだんと紡いでいく。 頭の中の完成図を現実に起こしていくタイプの作家もいるだろうが、私は完成図はおろか、3歩先の道筋さえ危ういような状態で物事を始めていく。 いつかに私は、揺蕩うことを最善と位置付けたように思っているが、それは確固たるものがないのだという半ば諦めによって否応なくなされたように思う。 その中には揺蕩う道をゆく少しの覚悟はあっただろう。 しかしあまりに揺蕩っていると、そもそも有るような無いような不明瞭なアイデンティティがぬるぬると溶け出してしまう感じがしてくる。 それは何だか大層不安なので、その溶け出しをせき止めるためにとりあえず何かを書いたり、何かを書いたり、するのかもしれない。 昨日初めて、彼が笑った、気がした。 主に寝ているときに見られる新生児の生理的微笑とは異なる、社会的な笑顔、コミュニケーションの笑顔である。 おそらく「笑う」という感情も概念もなかったところから、どうやらお父さんやお母さんと思しき僕の周りによくいる人物たちが色々な表情をしていることが認識できてきたのではないかと思う。 そして「笑う」ことに必要な表情筋もできつつあるのではないだろうか。 愛想笑いでも何でも良い、彼の笑顔はあまりに可愛らしくて、というかあまりに嬉しくて「もう一回やってもう一回やって」と彼にせがむとまたくしゃっと笑ってくれた、気がした。 人を笑顔にしたいんです、というモットーを掲げることを私は好いていないが、私は彼を笑顔にしたい。 というよりも、私が彼の笑顔が見たい。 笑ってほしい、私がとっても嬉しい気持ちになるから。 ねえ見せて、さっきの笑顔。 と赤ちゃんの可愛さに喜び満ちていた次の瞬間、彼は私の上で勢いよくうんちをした。 うんちが出ることは手放しに悦ばしいことだ、そうだ、そうなのだが。 そして彼の目はすっきりと澄んで輝き、清々しい、笑顔とは別の顔になった。 実際のところあの笑顔らしきものは何だったのか永遠に知り得ないが、背景に虹がかかったようなあの瞬間あの笑顔を私はずっと忘れないと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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