朝から雨がざんざんと降っている。
息子を抱っこ紐に括り付けて、「かーしゃ、あめあーめ」と楽しそうな息子と傘をさして保育園へ送る。 気分が良ければ、空気が洗われて雨も美しいなあなんて思えるけれど、余裕が無ければ、ずぶ濡れになって怒りに似た感情が湧いたりもする。 余裕が無いのは、息子が重いのと、保育園の荷物がかさばっているのと、靴に雨が染みてきているのと、傘をさしている手が不安定なのと。 家に出さねばならない段ボールや移動させなければならない紙の束などがあるというのも、奥底で響いている気がする。 無論、雨も息子も悪くはない。 雨はただ降っていて、息子の気持ちは晴れている、それだけである。 きっとたぶん、今温かなお風呂に使ったり、酷暑のサウナに入ったりすれば気分が変わるのだと思う。 鬱鬱とした気分や悩み事は、お腹を満たして体を温かくしてから言え、とどこかに書いてあった。 おそらくとても、これは然りであって、所詮人間とはそういうものなのだと思う。 ざんざん降りの帰り道、近くのパン屋さんに寄って食パンを予約してくる。 店員さんが私に気づいてくれて、「一本、夕方ですね」とアイコンタクトを送ってくれた。 「1.5斤まるごと、1斤を五枚切りの厚さにスライス、耳はつけたままで、16時頃取りに来る。」週に2,3回、頻繁に訪れるので、そのうちに店員さんはうちの食パン仕様を覚えてくれて、「1」と指を立てるだけで注文が完了するようになった。 また食パンを取りに行くと、たまに、「今日は雨で余ってしまったので」と残り物をくださるときもある。 私は上京して、「馴染みの店」というものを持ったことがない。 パン屋に限らず、飲み屋でも定食屋でも薬局でもクリーニング屋でも美容院でも。 どちらかと言えば顔を覚えられるのを避けているような節もあって、美容院も同じところに複数回行くことはめったにない。 私は仕事柄か、初対面の人と話すことは特に苦手ではないのだが、適当にごく短い世間話をすることが好きではない。 「あぁ変なことを言ってしまったな」「馴染みになって顔を出さなくなるのは失礼なのではないか」と後悔するくらいなら最初から話さない方が良いのではないか。 あと、店員さんにおすすめを押し付けられそうで嫌だということもある。 もちろん押し付けてない場合も多いと思うのだが。 また、ひとりでいた頃には引っ越しが好きだったので、根を生やさずひとところに留まらない風来坊のようにいたいとも思っていた。 そう思って暮らしてきたのだが、息子が産まれてから少しずつ変わってきた。 マンションの管理人さんや清掃のおじさんに毎日挨拶をして、息子がバイバイと手を振る。 薬局で「あ、どうも~」なんて言って、「この前の湿疹は良くなりましたか?」と先日の話をされて、覚えていてくれたことに感動したりもする。 毎日通る工事現場のショベルカーを見て「あかーー(ショベルカー)、かっこいいーーー」と叫ぶ息子に笑顔で応えてくれる工事のおじさんなど。 すべて息子を通してなのだが、この街の住人という気持ちが、上京して18年、初めて芽生えてきている気がする。 同時に、ある種の責任、というものも生まれた。 これまでトウキョウという場所をひとり借り物として楽しんできたのだが、息子は東京生まれ東京育ちなわけだから、この場所が当然の場所である。 地域、コミュニティ、そういうものの一員、というのはこういうことなのかもしれない。 さて、雨は止まぬのか。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|