髪を切った、おかっぱ、ボブ。
野放図の様相をし始めていたから。 髪や衣服は、楽であることが第一優先にきがちな私で、髪は長い方が楽なことも多いのだけれど、ちょっとした気分転換としてばっさりいくことも特段何てことはない。 ついでにハイライトも何本か入れて、これは日が経つにつれて退色して浮かび上がってくるらしい。 切り終わったとき、いもうとみたいだ、と思った。 鏡の中の私が声を発すると、いもうとが発しているように感じた。 昔にもこんな体験があって、美容室の鏡で後頭部を見せてもらったとき、いるはずのないいもうとがいるのか!?と後ろを思わず振り返ってしまったことがあった。 鏡にはただ振り返った私だけがいた。 人に言わせればそっくりと言い、そんなに似ていないよと言う人もあり。 しかしながら、自分の声は他人が聞いている声とだいぶ違うと言うし、自分は自分のことを鏡や映像でしか見ることはできても、他人が見ているように自分のことを客観視することは不可能だ。 私は、鏡の中の私を、私であるという認識以外に、私の外側にいるいもうとの要素を重ね合わせてしまったのかもしれない。 外界のいもうとの中に私自身の要素、私が私らしいと思っている要素、を見出してしまっているということなのだろう。 双子でなくても一般的に、自分の声や仕草は、自分自身よりも一緒に過ごす時間が比較的長い他人の方が知っていると言っても良い。 ぼーっとしていたり、怒っていたり、爆笑していたり、そんなときの内的な気持ちは自分自身だけのものだけれど、そんなときの自分の顔を私たちはほとんど知らないだろう。 ちなみに泣いている自分の顔を鏡で眺めたことは何度もある。 しかしその時点で、何かで「泣いている」その感情100%であることはありえず、「私ってこんな顔をして泣くのか」という探究心が混じってしまう。 新しい髪型はなかなか気に入ったけれど、きっとこれは短命だろう。 ブローが必要なのだけれど、ブローはほとんどしたことがない。 それに、私は髪が伸びるのが異様に早い。 ある生徒さんに、「先生が高校生みたいになっちゃって教わっているのが何か変な感じがします」と言われる。 これを言ったのは、50歳近くの、そして本当にお世辞でも何でもなく50歳に見えない、38歳くらいに見える、若々しい女性だ。 まあでも確かに、「書の先生」としては私は若いだろうし、服装もかなりカジュアルなので、年配の方の指導をカフェなどでしていると、時々奇異の視線を感じることもしばしばあると言えばある。 高校生、というのは言い過ぎにしても。 またしても展覧会の出品作の創作に追われている。 一つは、最近作った豆本でも書いた、太宰治「ア、秋」。 今回も長い文章を選んでしまって、根性勝負になっている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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