家に何も食べるものがなくてかつお節に醤油をかけてそれだけで食べました、という方が引っ越し祝いにとふぐをご馳走してくださった。
随分年上の女性であるが、家に何も食べるものがなくてかつお節に醤油をかけてそれだけで食べると言ったような行動が私と似ていて、何だかうまが合う。 と私は思っている。 一人暮らしをしていると、家に何も食べるものがない、という状況がしばしば起こる。 米もない、パンもない、麺もない、シリアルもない、卵もない、チーズもない、お菓子もない。 でもここらで熱量になるものを体に入れないと血糖値がまずい、と感じることさえある。 まあそこまでになるのはごく稀だが。 家に何も食べるものがない、という状況が起こらない人の方が多数なのかもしれないし、そのタイミングで家から歩いて3分ほどのコンビニやスーパーに出かければ良いのだが、それが面倒くさいが勝ってしまう。 日常的に食材を買いだめしておけば良いのだが、肉を腐らせてしまうあのやるせなさを考えるとなかなか買いだめもできない。 糸井重里さんが、「都会住まいの場合、スーパーやドラッグストアを自分の収納庫だと思えば無駄な物で家の中が埋め尽くされることがない」と言っていたことがあるような気がするが、そのことの影響も多少はあるような気がする。 しかし家にいることが多い最近では、腐らないものだけでも買いだめしておいた方が身体に良さそうである。 さて、ふぐに戻る。 ふぐを食べたことがなかったわけではないと思うのだが、あまりふぐの思いではない。 確か学生の頃、何か贅沢がしたいと奮発して新宿のふぐやに出かけたことがある気がするが、それがふぐだったかあんこうだったか、はたまた違うものであったか定かではない。 雰囲気を取って瓶ビールを頼み、「アラカルトだと面倒なのでコースにしましょう」ということで梅コースを注文。 梅コースでもぎょっとする値段であった。 かつお節に醤油をかけて飢えをしのいでいるのは、全くもってお金がないからではない。 美味しいものは食べたい、でもひとりじゃ美味しいものにかける労力が費やせない、とても分かる。 菜の花と数の子の煮びたしのお通しは出汁味に満ち満ちていた。 私は前から、出汁にまみれた菜の花は大好物である。 そして大皿に大輪の花のごとくふぐの刺身。 2枚や3枚ずつ食べても、小柄な私たちでは持て余してしまうほどだ。 「お酒が良いですね」と日本酒のメニューに目をやると、「ひれ酒」がある。 ひれ酒を私はおそらく飲んだことがない。 飲んでみたい。 ひれ酒は「ひれ酒」と書かれた湯呑みに茶碗蒸しの蓋のようなものがかぶさって出てきた。 マッチをこすって火をおこし、蒸発しているアルコールにボッと火を付けた。 すぐさま蓋をして少し経ったら飲み頃とのこと。 炙ったえいひれが日本酒に浸かっているようなお酒だった。 いや違う、ふぐのひれなのだけれど。 香ばしく焼いた魚の香りがぷんぷんと香り立つ。 魚には日本酒、という構図がこの中で完成されているのだ。 肴がなかったとしても、湯呑みのお茶を飲むようにするするといける。 へええ、これがひれ酒、美味い。 ただ魚飽和量が低めの私は一杯でちょうど良く、次は普通の日本酒にした。 ふぐの唐揚げ、ふぐ鍋、ふぐ雑炊。 最後にはお腹がかんかんにいっぱいになってしまって、雑炊は少し残ってしまった。 取り留めのない話がリラックスしてできた、そんな気がした。 最後にお礼を言うと、「いえ、私が食べたかっただけなので、こちらこそお付き合いいただいてありがとうございました」と言われる。 ご馳走になった身として何ともありがたい反応である。 「また行きましょう、何のお祝いでもなく、普通に」と私。 そう言えば最近いもうとに誘われ、銀座のフレンチランチにも行った。 芽セロリとリンゴのサラダが久々のマリアージュ体験を起こして興奮していた。 そして終末にはなんと珍しく兄が上京すると言う。 「好きなもん食わしてやる」と言う。 そんなことを言う兄だったか。 高いものばかりが美味しいわけではないけれど、高いものは美味しい確率はまあまあ高い、とは言っても良いだろう。 そしたらもう一度行きたい和食のお店があるのだが、兄は何と言うだろう。 祖母は危篤から復活したらしい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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