私は部屋が散らかっているのを好まない。
たぶん誰だってそうかと思うけれど、たぶん人と比較しても散らかっているのを好まない方なのではないかと思う。 事実、これから物を買い揃えるのですか?と問われたこともしばしばある。 できるだけシンプルでいられるように部屋にはあまり物を置いていないし、物を捨てるのも好きである。 しかしながら、机の端っこやソファの脇にどうしても積み上がっていってしまうものがある。 書きかけの書に筆、読み止しの本、新明解国語辞典、銭湯お遍路26か所達成の認定証、然るべき場所にファイリング前の領収書、いただいたレモンの香りの石鹸とメモ帳、この前遊んだ絵の具に絵筆、いつでも眺めたいサウナのムック本、年賀状のサンプル集、度々使う四角くて小さな和紙、不意に何か書けるかもしれないお菓子の箱・・・。 ちなみにこの話と全く関係ないが、差し挟んでおきたいが銭湯お遍路は現在45か所のスタンプを取得している。 明日また使いそうなもの、行き場の定まらないものが雑然と不安げにいくつかの小山を成している。 食事をするときはそれらをもう少しだけ面積が小さく高くなるように積み上げ直す。 いつだってすっきりと物のない状態を保ち眺めたいのだが、小山を4個から2個にすることはできても小山を0個にすることができない。 必要か不必要か本人しか分からなそうなごちゃごちゃさは作家ぽくて良いではないか、と自分自身に言ってみる。 確かに、炬燵から一歩も出ずに手を伸ばせばお茶とみかんと本と紙と筆があるような状態は便利であるし合理的でもある。 しかしこの見た目がやはり何となしに気に食わないのである。 でも、また近いうちに続きを書くかもしれない書き止しの書を片付けて終わりにしたくもないし、実際にそこにあるからまた続きを書くことも時々はあるのである。 しかし、すっきりとしていないのは嫌なのである。 毎日何かを食べたり飲んだりして排せつするように、部屋も代謝をしている。 新しいものを入れずに古いものを全く出さずに生活することはできない。 それに、捨てる、ということを重視していないと基本的に物は増える一方ということになってしまう。 部屋は身体のように我が身を増大させていくこともできず、我が身の置き場を圧迫することにしかならない。 小山が0個ならば気持ちは晴れやかになるだろうか。 そう思って時折小山を崩してみるのだが、そもそも行き場がないからそうなっているのであって、下手に触って安易に小棚でも買おうものなら、それは小山を新小山にすることに他ならない。 そして小棚による新小山が成立した後、私はまだ息づいていて再び新しい小山を作ることになるだろう。 これを何と呼ぼう。 こうなるともう、小山を0個にするということは不可能のようにも思える。 小山は私の生きる証で、延長自我なのではないかとも思えてくる。 外界に行き場ない自我を雑然と置いておいて良いものだろうか。 切り花は枯れるから良い。 私のせいではなく、捨てられる。 切り花は、私ではない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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