肩凝りと革ジャンパーのとがりたる
七三の大将が焼く新秋刀魚 誰そ彼時悪魔と口付け流行り風邪 2か月に一度の句会があった。 直前までほとんど何も準備していなかったにも関わらず、インフルエンザを罹患していたため、投句締切に間に合わず締め切りを延期していただいた。 どれもごたごたごたっとした句になってしまった感がある。 だめかなだめかなとやや気を揉んで参加したけれど、かろうじてすべてが入選してほっとする。 自分が良いと思う句が一番良い、のはそうなのだけれど、他人様に露出するすべてのものはやっぱり評価が気になるものだ。 そして、褒められれば当然嬉しい、嬉しいさ、そりゃあ。 ごたごたしていてうるさいと評された「誰そ彼時~」の句は、先日観に行った「君の名は。」で気になったキーワードである。 無論、自分でもうるさい句になってしまったという自覚はあったけれど、インフルエンザを患った私としては、悪魔と口付けして風邪を引いたくだりは我ながらよくできているなとお気に入りの句でもあった。 昔作った「月が煙草百本吹かせば夜の雨」の句もそうだけれど、ちょっとしたファンタジーと現実がリンクしているような雰囲気が私は好きだ。 句会の日、帰りがてら、「逢魔が時影と口付け流行り風邪」と改めてみた。 天を取ってくれた友人は、「ごたごた感が良かったのに」と言った。 これまで作った俳句を抜粋して、自分の俳句の豆本を作ろうかと思っている。 思い立って3か月くらいは経っている。 今のところ詩を書きたい願望は特段ないのだけれど、やはり人の言葉を借りてばかりではなく、自分の言葉を作品にしたい気がする。 まあでも、世の中にはとてもとても素晴らしい詩は、俳句、短歌、歌詞などを含めたくさんたくさんあるわけで、それらを私が触らせてもらって、自分のフィルターを通してもう一度違う形に置き換えさせてもらうことは、それ以外の方法では如何ともし難い楽しさがある。 大好きな曲を、大好きな短歌を、触らせてもらうことは、何とも有り難い。 しかし、それを書くとき、ありがとうございます、という気持ちに満ち満ちて書かせていただく一方で、一抹の罪悪感のようなものが無くもない。 誰かが必至で生み出して作品にした言葉を、自分の作品かのように振る舞うことに。 言葉を紡ぐことが簡単ではないことを、私も少しは知っているから。 もし、自分が生み出した言葉を誰かが違う形で表現してくれたとしたらそれはそれで嬉しい気もするけれども、でも。 私がやりたいのは、ものすごく根底的な部分では、純粋な書であるとは言い切れないのかもしれない。 書は書で好きであるけれど、本質的にそれのみで満足し切るということはないのかもしれない。 この世界の全てが借り物であったとしても、私がたくさん頑張ったという自負の下にいたい。 恥ずかしくて言えないけど私にしか守れないものを身を削って紡いだら案外さ悪くないかもよ と、これはゲスの極み乙女、川谷絵音の「私以外私じゃないの」の一説をまた借りてしまったけれど、そんな感じだ。 寒い、自転車に乗れないくらい寒い。 雪は降ったのだろうか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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