Amazonの聞く読書、オーディブルを活用し始めて数か月が経つ。
使用にはムラがあるけれど、今のところ月額1500円を解約しようとは思っていない。 再三にわたり書いてきたが、読書コンプレックスの私にとって、本というものにどんな形であれ触れていられるのは嬉しいことだ。 未だ小説には手が出せないでいるが、エッセイや何かしらの学術本などをざざざっと聞いている。 この、ざざざっと聞く、ということが肝だ。 私が本が苦手な理由のひとつに、一々表現方法が気になってしまうという点がある。 作者はこんな言い回しをするのか、良いなあ、なんて思っているうちに頭が本の内容から離れてしまって、ついでに、いつもは気にならないサーキュレーターの音が気になったり、乾いたバスタオルを片付けたりし始めたくなってしまう。 本物の読書の場合、もうここで終了なのである。 しかし、オーディブルの場合、自動で読み進めてくれるため前進力には事欠かない。 もちろんオーディブルで聴いていても、他のことが気になって聞いていなかった、という事態は多々起こる。 それでもこちらがストップボタンを押さない限りはその読みを止めてはくれない。 オーディブルを始めたときはそのことが気になっていたのだが、だんだん諦めもついてきて、本を「読まないよりまし」「聴かないよりまし」というくらいで付き合えるようになってきた。 私はオーディブルで聴いた本の何パーセントを理解しているのか、ほんの数パーセントのように思うが、それでも良いのである。 それに、今のところ苦労して聴いているわけではなく、「本の続き聴きたい!」と極めて能動的な状態であれていることも好ましい。 言葉の端くれ、知識の端くれ、本の印象、読み手の声の印象、オーディブルというサービスについて、そんなものが断片的に私の中に入ってくればそれで充分である。 実際に、聴いた本の内容を要約してそれを知らない他人にお勧めする、というような行為は難しくても、「砂糖は薬として用いられていたんだって」(『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書)のような一文だけ会話に取り出せれば十分なときもある。 そして、その端くれを端くれのまま頭に置いておくことができれば、次に別の端くれがやってきたときに稀にその端くれ同士がくっついたり共鳴したりすることがあるものだ。 端くれをただの端くれとぞんざいにしてはいけない。 端くれを端くれとしてただ持っていることが、自分なりに社会という大海原を航海するということに他ならないのではないか。 ところで、今聴いている、ダ・ヴィンチ・恐山こと品田遊氏の「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」という本が至極面白い。 私はインターネット上で活躍する恐山さんの大ファンなのだが、その彼の日記、短文集である。 彼に共感を抱く私は、自分自身の変さについてお墨付きをもらったような気分になる。 自分が”変”であることに懐疑的であるが、やっぱり”変”なのかもしれなくて、”変”に憧れてきた私にとってちょっと嬉しいことなのである。 彼は真面目で、謙虚で、鋭くて、機知に富んでいて、良いことを言う。 この後の電車移動でも続きが楽しみである。 <YouTube> 《ショート動画》ヒポポタマス AIド素人でも楽しい!書道家もAIを使ってみる <note> 有名飲食チェーン店の筆文字ロゴまとめ(其の弐)
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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