「あなたの筆さばきを見ていると、本格的な古典の指導を受けていたらと思うとちょっと怖い」と、自他ともに認める上手いお方に言われた。
古典を真剣にきちんとやっていないから全然ダメ、と言われている一方で、何だか私自身が意外に涙が滲んでしまうほどに嬉しかった。 私は自分の筆さばきにおける技術について出来る方では全然ないし、自信もない。 多少は習っているけれども、師匠と呼べる師匠もいない。 それでもちょっとは、筆遣いの技術に息遣いが乗っかって線として表れていることが誰かに伝わるのであればそれは嬉しい。 書道をやる人たちの中では、私はやや異端系であろうし、斬新だとか度胸があるとかそんなことをよく言われる。 私は、レイアウトや字のくずし方がほんの少しだけ派手なだけだと思っている。 ある方向から見る人が見れば、線がなっていない、で一蹴されるような書であることは自分でも自覚している。 あと、それこそ素人が見たのでは分からないような玄人の味わい深く枯れた線について、最近になってようやくその良さを感じられるようになったばかりである。 まず、本人がその良さを分からないものを目指せるわけないがと思う。 私は確かに、このように動かすとこういう線が出る、ということをあまり考えていない。 どちらかと言うと紙の方を見ていて、面白い線は出ているか、ということと、紙面における白黒のバランスを見ている。 大雑把に言ってしまうと、「奇妙なバランス」になると良いと思っている。 しかしながら最近は何だか行き詰まり感も覚えるので、「奇妙なバランス」について分析をかける必要もあるだろうという気はしている。 それで、なぜ私が冒頭のことを言われて涙が滲むほど嬉しかったのか、自分がそうなったことが意外だったことについて私は興味がある。 私のことを面白いと言ってくれる人たちは、私の持つ少々の書的派手さについて面白味を感じているのだろうと思う。 でもほんの少し、これまで培ってきた筆遣いが異端ながらも「上手い」という欠片になっていたのだろうか。 そして私は正統派に「上手い」と言われたかったということなのか。 あまり自覚はしていなかったが、正統派の「上手い」に強烈な憧れがあるということなのか。 それとも正統派のお墨付きがないとダメだと思っているのか。 いやまあ、そもそも「上手い」とはその方は言っていないと思うけれども。 私の書は、本当のところどうなのか、その“本当のところ”とは何なのか。 私はなぜ書を書くのだろうか。 根本にあるアートコンプレックスはきっとまだご健在。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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