かえるくんが出てくる前に部屋をリセットしておこうと真剣に床拭き掃除やら大物の洗濯やら植物への水やりをしてきたが、それらがまた1クール終わってしまうくらいに時が経ってしまっている。
数日内に自然陣痛が来なければ誘発分娩となる予定である。 薬を使いたいわけではないが、致し方ない。 例えば早産をすれば「赤ちゃんは早くみんなに会いたかったのよ」と慰められ、予定日よりも遅れれば「子宮の環境が良くてお母さんとまだ離れたくないのよ」と慰められる。 「死んだお父さんはあなたをどんなときも見守るためにお空の星になったのよ」と慰めれるのと似ている。 何が本当かはずっとずっと分からないままなのだろうが、いずれの場合もその逆を考えたり言ったりすることがないのが何だかフェアではない気がして私はこのような言い方が好きではない。 受け手の都合の良い風にだけ捉えることが嫌なのだろう。 私が神社などに行った際に周りの人が興ざめしないように手を合わせる行為をしても何も祈らないのは、普段神にも仏にも何の感慨も抱いてないくせにその時限りで祈りや願いを叶えてもらおうなどとは虫が良過ぎるように思えるからだ。 がしかし、一方で私がこのような主張をしてしまうのはまた裏返しとしてそのことに囚われているということにもなってしまう。 本当に気にしていないのならば、そのことを話題にしたりしなくても癇に障ったりしなくても良いはずである。 何かを推測するとき、自分にとって都合の良い一方的な決めつけではなく、当人はそうかもしれないしそうではないかもしれないという余白部分を慮ることができると良いのではないかと思う。 そこには受け手側のなるべく純粋な願望も存在させながら。 何だかいろいろとあって、どうやら今の私はキリキリとしている心持ちのようである。 心がくさくさとしていると言っても良い。 それを励まそうと夫は、スコーンを焼いて、求肥をこねて、牛乳寒天を固め、プリンを蒸してくれた。 スコーンと牛乳寒天は私のリクエストである。 夫は別にお菓子作りが趣味では全くないし、普段の料理もそんなには作らないし、手先が器用というタイプの人ではない。 加えて私はお菓子作りをさっぱりしないので家には道具も材料も乏しい。 私は「グレーテルのかまど」というEテレの番組が好きで毎週録画して観ているのだが、朝吹真理子さんの回で彼女の小説『TIMELESS』の中のスコーンが取り上げられていた。 この小説を読んだわけではないのだが、「何度嗅いでも、赤ん坊の汗みたいなにおいがするんだよな」という、焼きたてのスコーンを描写した表現が何とも絶妙に的を射抜かれた思いになって、そこから私はずっと焼きたてのスコーンが食べたいと切に思っていた。 赤ん坊の汗の匂いを詳しく知っているわけでもないのだが。 先日行ったカフェでもスコーンを食べたのだが、なかなか湯気が出るような焼きたてを食べる機会が無いものである。 焼いてくれたスコーンは少し焦げて大ぶりのクッキーのようだったけれど、さっそく割って湯気を顔に近づけて匂いを嗅いでみる。 柔らかなでわずかな水蒸気が立つスコーンの湯気はむわりとしてほの甘く、なぜかほんのごくわずかに酸っぱいような香りを潜ませるものだった。 そうそう、このことを「赤ん坊の汗みたいなにおい」と言ったのだと既に完璧に知っていることのように感じた。 頭の片隅に意図するでもなくしまってある記憶の小さすぎる欠片を、不意に呼び起こされるという体験は不思議であり気持ちの良いもののように思う。 それはもしかすると記憶ではなく、物事の“イデア”のようなものの認識と言っても良いのかもしれない。 それが図らずとも偶然に出会い、リンクし、マリアージュする。 あまり系統立てて派生するような事柄ではなくとも、そんな出会いを見つけられたときは、大げさに言えば生きていて良かったと思える。 それもそうと、まだ食べていない巨大な型で蒸したプリンを今夜食べるのが楽しみである。 女くどき飯 終電ごはん 秒速5センチメートル バケモノの子 万引き家族 天国のスープ しあわせのパン 8年越しの花嫁 武士の献立 くちびるに歌を 暇にまかせてスマートフォンを抱えてamazonプライムにかじりついている。 ごはんものが多いのは、私は食べ物の描写が好きなことと関連動画が次々と示されるからである。 「女くどき飯」と「終電ごはん」はかなり早送りをしながら全く無駄な執念心で観てしまった。 私は映画に全然明るくないが、是枝監督の作品は総合的に面白いなあと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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