私は大抵、電車に乗るときや歩いているときは音楽を聴いている。
自転車に乗るときは法律が変わったから一切しなくなった。 家、前日に着ていたコートのポケット、カフェ、居酒屋、いろいろな場所にイヤホンを置いてきてしまうことがよくあって、それでも「あぁどうしても音が欲しい」となることがあるのでいつも予備のイヤホンをバッグに入れている。 と思っていたのに、その予備もバッグに見当たらない。 今までに10個くらいイヤホンを買っているけれど、初めて100円ショップのものを買ってみる。 私は耳が小さいので、普通のサイズのイヤホンを買うと耳からの拒否に遭って抜け落ちてしまう。 一番小さなサイズのカナル型のものを買う。 本当はもっと小さい方がいい、それくらい耳が小さい。 音は1000円ほどのイヤホンとは歴然と違って、まるで段ボールで作られたスピーカーか、段ボールの中で聴いているようなくぐもった音がした。 なんならドラムは段ボールで作ったドラムを叩いているのではないだろうかと思うほど。 これはくるりの「東京」かなと流してみるとなんだか味わいが増した感じがする。 岸田さんがカラオケのマイクで歌ってくれているような、そんな粗さと身近さが生まれていた。 ストーンローゼズも良いかなと思ったけれど、飛散していくような音の広がりがなくてダメだった。 まあでも、とにかく音楽を、という点はどんな音であってもクリアされるので全然良い。 スコーンと「焼きドーナツ」を持って友人の家に行く。 先日買った「焼きドーナツ」は案の定食べてしまったので、再度買い直して。 私が、極めて寝不足だけどよろしく、と言うと、彼女は一睡もしていないと言う。 その理由は、私と彼女では立場的な違いとして付与される意味が全然違う、けれど、私たちがやっていることはとてもよく似ている。 彼女の子どもは大きくなって、ゆらゆらと立ち始めていた。 まだ体幹がぐらんぐらんなのに、手を持ってあげると、立てる歩ける、と勘違いするので支えている方は大変である。 私たちがスコーンをもさもさと食べながら、そのもさもさについてなどを話していると、「私がいること忘れないで!」と言わんばかりに存在をアピールしてくる。 その子は、前髪が目にかかっちゃうから、とお母さんの計らいでちょうどツノの位置に二つ髪を結んでいた。 そのゴムの飾りがちょうちょとてんとうむし、だったかどうかは記憶にないけれど、なんだかとても良い質感でその子によく似合っていた。 私の姪へのプレゼントとして彼女が作ってくれたスタイのお返しにあげた多肉植物たちも元気に育っていた。 そのひとつが、おそらく光の関係で、風に靡いたまま止まってしまったような形で伸びていて愛おしくて笑ってしまう。 句会仲間でもある彼女と俳句の話も断片的にする。 彼女は俳句が上手い。 というか短歌も上手いし、言葉の扱いが上手い。 描こうとする何かを自分で選び取って形作り、それに自分自身の色を滲ませたり、ぎりぎり他人が分かる感じに組み合わせたりすることはそんなに簡単ではない。 私は彼女の紡ぐ言葉には時々密かに、悔しい、という思いを抱いていることもある。 そういえば、彼女とはよく会うけれど、ここ数年の私たちの会話としてヒロトとマーシーの名前が出なかった一日は初めてかもしれない。 寝不足の私たちはそれなりにぼーっとしながら、しかし自分たちの話題に引っ張られてそれなりに元気に話をした。 私の仕事の都合で時間が迫り、私としては不完全燃焼だったけれど彼女の家を後にする。 帰宅してから、あいうえお作文みたいなあいうえお俳句で彼女と続きを少し遊んだ。 もっと、借り物でない“わたし”に出会いたい。 それにはただ私がやるしかないのだ、というのを阻んでいるのは、私の小心さしかない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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