パトカーとショベルカーのことを「あかー」と息子は呼んでいる。
救急車は「ピーポ」か「ぎゅうぎゅっしゃ」、消防車は「しょうおうしゃ」、ゴミ収集車は「びししゃ」、バスは「ばぱ」から最近「バス」になった。 多くの子ども、特に男の子がそうであるように、もれなく息子も大きめの働く車が好きなようだ。 これらの運転手さんは、切羽詰まっていないときであれば、結構な確率で笑顔を向けてくれたり手を振ってくれたりする。 地下鉄の運転手さんも、先頭で待っていると、こちらをちらりと見て、スッと手を上げてくれたりする。 お巡りさんも運転手さんも、小さな子からすれば皆ヒーローである。 場合によっては小さな子が疎まれることもある社会ではあるが、私は子を育てるようになって、なんだかんだと優しくしてもらっている気がしている。 ヒーローたちが手を振って合図をしてくれたり、電車では席を譲ってくれる人も多いし、パン屋さんや薬屋さんではおまけをもらったり、犬を触らせてくれたり、道端で目を細めて声をかけてもらうこともしばしばである。 今後そうでないことも経験するのかもしれないが、子どもがいるのが当たり前の社会になると良いなあというのは多くの人の願いでもあるだろう。 さて、私は書道の所属団体から独立して久しいが、最近、現時点においての「私らしい書」というものの骨格が粗方できたなという感じがしている。 筆致のあり方と画面構成上のひとつの「型」という意味で。 いつもふらふらいろいろ実験するように書くのだが、この力加減と流れと配置で書くと紙面が決まりやすい、というようなことだ。 これはかつての所属団体の創作理論やその他の書諸々を借りながら、私らしさをプラスしたもの、と言って良い。 まあ、何を創作するのも、過去の創作物に学びながら盗み、新しさを追加する、ということに他ならないと思うが。 書は字の連なりであるので、つながっている様、がひとつの肝である。 書道用語では「気脈」と言うのだが、どういう書風にするにしてもこの気脈というものが欠かせないらしい。 簡単に言うと、それぞれ一字の中心を中心をもって繋いでいく、ということ。 そうすることで、見えない流れが産まれ、一貫性のあるまとまりに見える。 書は言葉であり、文であるので、それが滞りなく書かれているのは紙面上の「落ち着き」であるだろう。 無論これを破った書き方もできるのだが、そうすると途端に画面構成が難しくなる。 奇は衒えば良いというものではない。 私が自分のひとつの「型」を見つけるにあたって、それまでに思っていた”自分らしさ”とは別のものを認めざるを得なかった。 数年前の私は、何となく自分の傾向として、どかんとびしゃっと太く力強い書が向いていると思っていた。 しかし、そのようなものを書くと、目の前の書がどうにもこうにも決まらない。 それでもできないはずがないと多々試行錯誤したものだが、あるときある人からの助言もあって、それを試みるのを控えることにした。 反対に、弱くちまちま、力を抜いて書くと、枚数も少ないうちに「なんか良いじゃん」と言ったものができる。 もちろん一度や二度の話ではなくて、何百枚何千枚の結果であって、それはもう抗えない事実であった。 見た目にも派手で、書をあまり知らない人でも分かりやすい、気迫たっぷりの書が書ければ良いのだが、私はそういうタイプではなかったということだ。 そのことは何となく、打ちのめされるようなことではあった。 変な言い方だが、私の書は一般的に言って「モテない」書の部類であったわけだ。 まあでもそれは私にとって全く卑屈になるようなことではなく、自分がちょっと変な人の認定がされたようで嬉しいというような面もあった。 私の好きな言葉に種田山頭火の、 『あきらめ』ということほど言い易くして行い難いことはない。 それは自棄ではない、盲従ではない、 事物の情理を尽して後に初めて許される『魂のおちつき』である。 という言葉があって、そんな感じである。 ようやっと、あきらめられたのである。 今は比較的水平な地にいるような気がする。 また変わっていくのだろうけれど。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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