久しぶりに古典の臨書をしている。
孫過庭「書譜」。 5世紀後半くらいに書かれたもので、内容は書についての技法や方法論などが書かれているらしい。 書道の世界は、臨書臨書臨書臨書臨書・・・と言われるほど、古典の臨書が重んじられている。 臨書とは、誰かの字を見ながら、己を捨てつつそれを映すことを言う。 もっとも、漢字は3000年ほど前に発生して2000年ほど前に楷・行・草・篆・隷の書体がほとんど確立されてからあまり変化をしてきていない。 それほどにまで完成度が高く美しいものだったのだろうし、国家繁栄、社会的にも意味を成したものだろうと思う。 それに、筆記用具の主が筆だった時代だから、やはりその名手が生まれやすかったのだろうとも思う。 だから、臨書臨書臨書臨書臨書・・・で技術を体得し、歴史を感じ敬意を払いなさいと、そういうことなのだろう。 臨書をやらないのは書が分かっていないことと同義だ、というような言われ方さえすることもある。 そうなのかもしれないし、そればかりでもない気もするけれど、まあ私はあまり臨書するのは好きではない。 しかしながら、字の癖、身体の癖、思考の癖は自分で思うよりもずっと屈強なものであるので、臨書は凝り固まりがちな自分を癖を解いてあげる効果もある。 私にとっては臨書は発想を仕入れるという意味も大きい。 ここで力を入れるのか、ここで連綿はしないのか、偏と旁がかなり空いているのにそうは見えないのはなぜだろう、随分大らかに回ってきている、この人の癖はこうなのか、ここの穂先の向きはどこだろう、などなどと色んなことが分かってくる。 私は創作をするとき、「なるべく自分が普段行ってしまわない方向に線を書く」ということをよくするのだけれど、それも字という記号の制約の中ではなかなか叶わなくもなってくる。 しかし、そこにはそもそも無限の組み合わせが広がっているわけで、私の頭が硬いのと技術が足りないことがそうさせていることには違いない。 だから外界からネタを仕入れながらそれを開拓していく。 だから多くのものを見ること、そして実際に手を動かして書いてみることは必要なのである。 ところで「書譜」は草書体で書かれているのだけれど、私はあまり草書が身体にしっくりと来ない。 やっぱり子どもの頃から憧れたのは誰もが読める流麗な行書体であったことが大きいだろうか。 井上有一も言っていたが、何か表現をするとき、それは己の中にあるものなのだから、「日常的に垢に塗れて使い古された文字」というのはやはり楷書体行書体になる。 草書体は知っているとしても後々覚えたもので、まだまだ体にとっては新しいからなじまないのだろう。 あと、私の場合、草書体は元の楷書体行書体のイメージというか、くずされている過程が明確にイメージできてないと書けない。 草書体は、楷書体行書体よりも線が少ない分、繊細なバランスで成り立っているし、少しでもその心が分かっていないと形にならないのだ。 「お前にはまだ早い」と拒否されているような気分にもなる。 いや、古典はそこにあるだけなので、実際にそれを拒否しているのは私に他ならない。 一字において草書の書き方はいくつもあって、実際のところ、多くの書をやる人たちはそれを字典で確認しながら書いていることが多い。 皆、草書体は我々の日常生活の中にあまり馴染みがないものだからだろう。 一度字典を引いてもなかなか覚えられないのもそういうことだ。 それが私の身体の一部となって定着してくれる日が来るだろうか。 いかにせよ、物言わぬ法帖が大いに物を言うことを改めて実感している。 ヒップホップのR-指定さんが1991年生まれの26歳であることを昨日知った。 見た目も貫禄もラップも、てっきり40歳くらいなものだと思い込んでいた。 いろんな意味で驚愕。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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