あと二か月で今年が終わる。
まあでも何も終わったりしない。 こんなときいつも、虚子の句「去年今年貫く棒の如きもの」を思い出すのだが、この句はやはり凄みが凄い。 ご縁あって、新規オープンするカフェバーの飲みものメニューを揮毫させていただいた。 半紙半分のサイズ、B5用紙より少し小さい、 通常活字で書かれている文字を、実際に筆で書くととても小さいと感じる人が多いと思う。 実際に半紙半分のサイズにこれだけの文字量を書くのは、目がちかちかしてしまうほどだ。 しかも、当然ながら一字たりとも誤字脱字は許されない。 私は鉛筆で下書きとか、行数を書き込むとか、PCを使ってレイアウトのシミュレーションなどは行わない。 まずだいたいの見立てで何となく一枚書いてみるのが始まりである。 そうして、文字の大きさや余白のあり方などを把握して、2枚目以降は本番さながらに書いてみる。 最近では、時間が許せば、一旦良いものができたらその日は終わりにする。 日をまたいだ方が書きあげたものへの判断を冷静にできるし、次のタイミングには一段良いものが書けることが多いからだ。 そしてまた次の作業日、前のものを眺めつつ反省点をリカバリーするように書いていく。 慣れが生じるからか、2日目の方が誤字脱字が多くなる傾向にあるような気がする。 せっかく上手くいっていたのにーー、といったことを経て、細かい調整ごともすべてクリアした完成品を書きあげる。 我慢、辛抱、不屈、執念、である。 こういった仕事は神経を使い、骨が折れる。 しかし、書きあがったときの爽快感は、おそらくジョギング5キロくらいを走った爽快感に匹敵するものがあるのではないだろうか。 ちょうど、般若心経を書きあげるのと似ているかもしれない。 なかなか良い仕上がりなのではないかと思う。 自分で言うのもなんだが、自分でそう言えないのもどうかと思う。 もちろん、どのレベルでもどころがないというのは嘘だけれど。 店長の女性もとても喜んでくださった。 ほっとした。 緊急事態宣言が明けて、コロナ感染者数もかなり下火になっているので、是非街に繰り出して飲みにいきたい。 しかしながらコロナどうこうではなく、息子がいるので難しいところである。 一緒に行っても良いが、きっと30分くらいで帰る帰ると騒ぎ出すことだろう。 最近の息子は本当に私にべったりである。 そのことは私を嬉しくさせる一方で、身動きの取りづらさを感じざるを得ない。 寝るときは小さな息子と抱き合って寝ている。 息子は自分が寝入るまで背中をさすれと言わんばかり、手を離すと怒ってまた私の手を持っていく。 起きるときに視界に私がいないと大不機嫌になる。 私がいればにこにこしている。 私は自分の存在価値を息子によって劇的に上げられているので、それをそのまま世間様に向けて高慢になってはいないだろうかと時々不安になる。 まあでも、息子が私に対して必要としている安心は、私のできうる範囲いっぱいまであげたいとは思っている。 それがおそらく、将来の様々な意味においての自立の一助になると信じているからだ。 神経質な面がある息子だが、私以外の場所でも屈託なく笑えるようになってほしいと願っている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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