心の予定日まであと一か月。
長い長いと思いながら、随分と進んできた。 最後は大きなお腹から巨大になったかえるくんを出すのがもったいなく思えるのかもしれない。 かえるくんは今もぐにょんぐにょんと足なのか手なのか身体なのかを動かしている。 そろそろかえるくんの肺呼吸の世界の名前を決めたいと思っているのだが、夫はまだ考えあぐねているようである。 気まぐれに作品の整理など。 それなりに心血注いだ作品というのはそれなりには愛おしさがある。 しかしその全てを取り置いていたら日々の空間を圧迫することになる。 だから時折、雑多にしかしひとまとめにされた作品の山を見返して取り置くものとそうでないものを選別する。 古いものほど、その選別の目が何度も通っていることになるので、やはり捨てるものは少なくなる。 画像は少しの加工をするので、画像上は見栄えがするものがあったり、やはり現物の方が良かったり、様々なものがある。 作品を見返すことはアルバムを見返すようなものなので、作品は季節感やその日の思い出などを含んでいる場合がある。 しかしあまり凝視することなく、ちらりと全体を眺めて残す残さないを判別していく。 それなりに、私なりに、いろいろな試行錯誤をしてきたなあと少し自分を褒めたく思う。 過去の私の作品を見て、悔しいという感情を駆られるものもある。 今の私は、このときのように自由闊達に書けないと思うと情けなく思う。 一方で、目が肥えたのか、かつては良いと思っていたものもさっぱり良く見えなくなることも多々ある。 最近は半紙以上に大きなものは書けずにいるけれど、やはり単純に紙が大きいというスケールの大きさは、身体の動きのスケールに等しいので作品の存在感にもつながるなと思う。 また、私がぐっとくる字や線は確かな傾向があるなとも思う。 ある程度良かれと思うものをさらにさらに掘り下げていくことを今後はしてみないといけないと思う。 ざざざざっと見返して、捨てる作品もそれなりに山となって積み上がった。 画像ではほとんどすべてを取り置いているが、それもまたいつの日にか整理しないといけないときが来るだろう。 クラウド上の置き場だって無限なんてことはない。 そしてその後、私の産休中にやってもらう生徒さんへの宿題づくり。 その場でどうやって書いているかを説明できないとなると、たまたまそうなった、というような曖昧な書き方は許されない。 できれば産休中に、私に暑中見舞いの葉書なんて出してもらえたら嬉しいなと思っている。 ポストに葉書や手紙が入っている、そんな情景がたまらなく好きである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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