先日、ギタリストである友人の新曲のミックスの作業にたまたま居合わせた。
「ミックス」とは知っているようで知らなかったが、音楽はとてもたくさんの音で合成されていて、その一つ一つの音を調整して最良化していく作業だ。 音の種類や数、大きさ、テンポなどなど、その掛け合わせともなるとそのパラメータ数は数知れず、文字通り気の遠くなる作業だ。 友人はライブはそういう意味で楽だ、と言っていた。 ライブはその時限りの演奏で良し悪しをあとで調整することなんてできない。 いかようにも、どこまででも、調整できてしまうものを、ある見えないゴールまで運ぶのは吐き気すら及ぼすだろうことは私でも想像ができる。 しかしながら、それに耐え忍んでやっていると、一筋の光が射すことがある。 そのことは書にも言えて、私も”何かよく分からないけれど絶妙なバランス”というものをいつも目指している。 それは何枚目で訪れるかは本当に分からないのだけれど、耐え忍んで調整を続けているとふと「あぁこれ!」と思うものが書けることがある。 大抵それをすくい上げて、毎日出している作品についてはそれをもって終了とすることが多い。 おそらく世のあらゆる作家たちは、地味で面倒な作業を嬉々としてやる人は少なくて、その一筋の光の満足感が何にも代えがたい満足感であるがために、何かを創っているのだと思う。 圧迫され続けて潜り続けてやっと呼吸ができたときの安心と嬉しさ、自分だけの喜び。 世の中にも私の中にも、様々なタイプの価値があるけれど、この類の価値は世の中の尺度としては劇的に低いのだけれど、自分の中にしてみれば劇的に価値が高いのだ。 ただ、渦中にいるときにはやっぱりちょっと辛い。 それを誰に頼まれるわけでもなくやるわけで、それをしない人から見たら、かつて私が彼らに対してそう思っていたように、気違いじみていると思うだろう。 私が友人の新曲のミックスに居合わせたのは最後の最後の仕上げ作業の段階だ。 料理で言えば、あと何粒塩を入れたら良いのか、何粒の砂糖を取り除いたら良いのか、みたいな段階。 まあ、料理において言えば溶けてしまった塩や砂糖を取り除くことはできないけれども。 私は音楽に乏しいので、そんな数粒の塩や砂糖の違いが分かるだろうか、と半信半疑に聴き比べるのだが、なんとなくは分かる、ような気がする。 この私の音楽に対する”なんとなく”には全然自信が持てないし、AとBの違いを見つけろと言われて実はAとBが同じだったとしても、私は何か違いがあると言ってしまうだろうという気もする。 ビールと発泡酒の違いも、二つ飲み比べれば分かるけれども、片方だけを出されたらどちらか分からない気がする、ということよりももっとはるかに繊細だろう。 ちなみにビールと発泡酒についても私は自信がない。 とにかく自信は全然ないけれど、できるだけ気持ちをフラットにして、手を離した状態にして、一部の音ではなく音楽の全体感を掴みとるように聴く。 気負い過ぎてもだめだし、気を抜いてもだめだ。 ああだこうだと言いながら、友人はパソコンのあれこれの数値をほんの少しずつ変えていき、「お、これが一番良さそう」というところは二人が一致した。 プロと無知識の二人が一致するというのは、やっぱり”よく分からないけれど良い”という領域が確かに存在するのだろうと思う。 そういうのは、大げさに言えば、生きていく希望になり得るなと思う。 あぁ良かったと安堵して、最近我々の中で流行りのフリースタイルをやってみる。 適当に思いつきで喋るのは本当に難しすぎるので今度は8小節のみの歌詞を書いて。 歌詞にはそんなにこだわらなくていい、まずはやってみることだ。 と、挑戦するわけだけれど、リズム感に乏しすぎる私にはやっぱり難しい。 ミックスの延長で8小節ずつ録音までして遊んでいたのだが、音楽家の友人はやっぱり上手かった。 だいぶ日が短くなってきた。 午後から夕方にかけて6時間ほどぶっ通しで生徒さん向けの半紙・半切のお手本を書く。 これを書くのは自分の鍛錬という意味合いがとても大きい。 一年前よりも今の方が上手い、そう感じていたい。 上手いって何?良いって何?という疑問を常に携えながら。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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