眼鏡を買った。
私は視力が0.1を切るが、通常はコンタクトレンズなので眼鏡は家で短い時間使えれば良いのでバリバリに見えなくても良い。 しかし、毎年花粉症の時期にコンタクトレンズが入らなくなってしまい、今まで持っていた眼鏡の度数が合っていなくてやや不都合な感じがしていた。 そんなこんなで実に7,8年ぶりくらいに眼鏡を買ったのではなかろうか。 2,3日の間、時間のある時に適当にいくつかの眼鏡店を歩き回り、形や値段の傾向をざっと見て、金縁の少しレンズが大きめで軽いものにした。 今の眼鏡が太い紺縁のものはおもちゃみたいで丈夫だったけれど、今回のものは軟で繊細だ。 ぞんざいに扱ってはならない。 今までの眼鏡よりも度を少し強くした。 検眼もとても久しぶりで、今まで言われたことがなかったけれど乱視があるらしい。 乱視、とはなんぞや。 そして大人になってから乱視になることがあるのか。 家に帰って新しい眼鏡をかけると、今までの眼鏡よりも度が強い分くらっとした。 くらっとして、くっきり鮮明に見える。 くらっとするのは今までの見え方を覚えている脳が慣れないせいだ。 「この世界の片隅に」をやっと観た。 この映画はまだまだ盛況のようだ。 主演声優ののんは、主人公の少し間の抜けたとっても雰囲気が合って、“天才肌”と言いたくなる感じがよく分かった。 この映画の雰囲気の大きなところをのんが主導している。 周りの人に勧められるばかりでほとんど前情報を入れず観たので、てっきり「君の名は。」のような映像美もあるアニメなのだと思っていたけれどそうではなかった。 絵は大画面で見なくても良い感じだったけれど、ほんわか柔らかな風味だった。 いつの時代も、どこの場所でも、人々は息づいていて暮らしを送っている。 それは時代が進んで日本は戦争をしていない現在だって変わらない。 いつだってそこかしこに、ひとりの人の人生がそれぞれに存在し、何か大変な事態が起こったり起こらなかったりして、交わったり離れたりする。 “自分”が知らない“自分”として存在する誰かの人生がたくさんたくさんあって、例えば遠く海外に行ったときに一瞬で通り過ぎてしまうバスからその地の風景をちらりと見たときと同じような思いがした。 この映画は、戦争に翻弄されながらも、なるべく平常でいられるように起きている事実を俯瞰しながら丁寧に生活をしている人々の姿が描かれている。 この時代の、この地域の、“普通”や常識“”もたくさん知ることができる。 その中に主人公すずや他の登場人物の個性や個人的で純粋な願いが盛り込まれている。 戦争でたくさんの人々が思うように生きられなかった悲しい時代、そういう見方もあるけれど、いつだって変わらずに時間は流れていて、人々は交錯している。 死んだ誰かの分まで生きる、のではなく、当然ながら日々を普通に丁寧に生きるのだ、そんなことをかんがえさせられた。 いやしかし、その一方で、戦争が組み込まれた日常とはやはり何と苦しいものだろう。 自分や身近な人がいきなり死ぬ確率は戦争の有無に関わらずあるけれど、戦争中はその確率が異常に高い。 爆弾が雨のように降ってくるなんて、道を歩いていたらいきなり爆弾が暴発するなんて、ゲームの世界としてしか想像が難しい。 爆弾が煌めく空を見て、絵を描くことが好きだったすずが不意に「今絵の具と画板があれば」と漏らしたところ、敗戦して、「ああ、何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ。」とすずが泣き崩れるところ、そんなことがとても印象的だった。 何を書いてもネタバレ的になるので何だか難しいけれど、とってもおすすめする。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|