アイフォンが壊れた。
そして、新しいアイフォンに変えた。 最初の症状が起こったのは2か月前ほどだろうか。 ある雨の朝、画面に濃すぎるスモッグがかかったようになって。 内部の機能は正常だけれど、接触不良で画面の操作がまったくできない状態になった。 初めてSiriに「○○に電話をかける」とお願いもした。 アイフォンを自分でプレスすると治ったりまた駄目になったりしたので、だましだまし使ってきたけれど、ある日プレスしすぎたのだろう、接触過剰のような状態になって、勝手に電話がかかってしまうわ、音楽は無作為に再生されるわ、キーボードを立ち上げると「たおkがじょいtpはおいわ」のようにものすごいスピードで打たれてしまうわで酷い状態になった。 挙げ句、今度はその接触部が完全にイカれてしまったのだろう、画面は真っ暗になったまま映らなくなった。 アップルケアに加入していたのが幸いで、7800円で新しいものと交換になった。 過去に洗濯してしまったのと、ポケットからスルリ抜け落ちて紛失したのとで、3度目のアップルケアの利用である。 こうなった原因はおそらくアイフォンを何度も落下させている衝撃だと思われるので、新しいアイフォンのカバーを変えた。 今までだってブック型のカバーをしていたのだけれど、それでも守られていない少しの側面部にちょうどめがけてカツンと落下して画面にひびが入っていた。 だから今回は、側面部もぐるりと守ってくれる形のカバーを購入。 今まで真っ赤な合皮のものを使っていたけれど、今回はクリアな背面に正面は濃紺のカバー。 濃紺は細かい粒子の砂のように少しざらざらとマットで、星が微かに輝く夜空みたいだ。 前のよりもだいぶ、スリムで、スマートで、ソフィスティケイテッドな感じ。 服よりも、バッグよりも、マグカップよりも、眼鏡よりも、スマートフォンは目にしたり手にしたりすることが多い。 そんなものの新しい変化は、ちょっとではなくうきうきする。 性能はどうだろう。 まだ落としてはいない。 私はブログを書かない間が続くと、ちょっとした不安に陥る。 別に誰に頼まれているわけでも、特別に誰に読んでほしいわけでもないブログを、10年以上もの間習慣として書いてきた。 一旦ブログを止める、と高らかに宣言して、どうしても止められなくてものの二カ月で再開したこともあった。 特別に何かを言いたいから書きたいわけでもどうやらなくて。 作品としての文章を書きたいということでもなくて。 もちろん何かを言いたくて、考え事をまとめたくて書いていることもある。 でも、基本的にはただ何か書きたいから書いているということの上に成り立っている。 文章を綴ることが好きで、それは誰か、どんなに親しい人とのお喋りとも全然違って。 体調を崩していたりアイフォンが壊れたり仕事が立て込んでいたりで、ブログを書く時間がない、というのが最近の現状なのだけれど、それは私としてはなんだか立ったまま食事を済ませるような生活になってしまっているような気がしてならない。 例えば食事を立ったまま済ませることは、限度こそあれ私は大した不安にはつながらないけれど、ブログを書けないのは不安につながる。 ひとりでいる暇な時間、できれば晴れた日の昼下がりが良い、コーヒーを淹れてブログを書く。 晴れた暇の昼下がりに出かけずにPCをカタカタやるなんて、あぁ日が暮れてしまう、という一抹の背徳感のようなものが頭をかすめながら、自分が何かしらの文章を書いていることの方が満足感があることが多い。 いやしかし、それも本当にそうなのだろうかと疑いたくもなる。 ブログよりも楽しいことがあればそれはそれに時間をかけるべきだ、当然ながら。 ブログを書くことが現状の私を保つ、またしてもホメオスタシスの働きの一助をしているようにも思えることもある。 もう知っていること、やらないよりはマシなこと、を何度も何度もなぞるような、そんなことのために機能しているのではないか、などと思える。 ちなみに、書道家のブログとしては当然と思われるかもしれないが、筆を持っていない日が続いても同じような不安がよぎる。 あの人はあんなに書いていてどんどん上手くなる、というのもそうだけれど、あの人と同じような書を書くことが目的なのではなくて、あの人は私よりもずっとずっと己のことをより知っていくだろうという不安。 私だって私のことを知りたいし、私について良くなっていきたい。 日々、何らかの達成感があるといい。 達成感、とは、幸せ、という言葉に置き換えられるのかもしれない。 感動したい、ということなのかもしれない。 それは何だっていい。 美味しいものを食べた、良い酔い方ができた、何か新しい話が聞けた、アイフォンのカバーを変えた、風邪で打った注射が効いた、雨の雫が落ちた音が聞こえて忘れていた何かを思い出した、そんなことでもう本当に嬉しい。 ネタは何でも良いけれど、心から大笑いできた日はそれはもう最上級に素敵な日になる。 書を書く、文章を書く、俳句を創る、料理を作る、リリアンを編む、ぬいぐるみを縫う、といった何かしらの創作活動は、いずれにしても達成感を得られる確率が高い。 リリアンとぬいぐるみは私はやらないけれども。 おそらく、未知の開拓か、過去の埋もれた思いの発見か、それらが欲しいのだと思う。 書も文章も、書きたいときに書けばいい、ただそれだけのことではあるのだけれども。 つまりは全般的に「より良くなりたい」という、友人が総括している言葉で全て言い切れてしまうようなことなのだけれども。 「より良くなる」ということの本質的な意味と、「より良くなる」というその方法が、常々難しいなあと思っている。 ホメオスタシスの機能を疑いながらも、私はこれを書いて、やっぱり、ふう、と一息つくのである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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