妊娠していると、どうしても妊婦でいることに心身共に支配されてしまう。
少なくとも思考は、どんな病気のときだって、陣痛渦中のときだって、原理的にはいつだって自由に羽ばたけるはずなのだが、一心同体とはこのことであるか。 ちなみに、陣痛時に私が試してみたい思考は、痛みを感じているのは身体のみであって、その痛みで本質的な“わたし”が脅かされることは一切ない、というより“わたし”の存在は脅かされようがないのである、というある種の哲学的思考である。 ヤージャニアヴァルキア・・・という古代の人物だったか、昔「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」飲茶さんの本の中で、「私は私を観察することができない」と言った人がいた。 私が私を観察するには、俯瞰する“私”が必要であり、その俯瞰する“私”を観察するためにはその俯瞰する“私”を観察するための“私”が必要となり・・・さてはて一体“私”とは何なのだろうか、と続いていく先に、かの有名なデカルトの「我思うゆえに我あり」といった言葉が出てくる。 上手く言えないけれど、“わたし”はこのことを知ったとき、“わたし”の存在の危うさと無意味さと無限の自由さを同時に感じた気がした。 思念の風が吹いた、そんな気がした。 それでどうなのだと言われると困るのだが、ほんの少しは人間的自由度が上がったのではないかと思う。 しかしながら、その思考を手段として発動することが実際にできるか否かは極めて難しいだろう。 痛い、暑い、痒い、といった我が身の不快は我が身として正しく不快なのだから。 痛いのは我が身に危険や死が迫っている信号なのだから、“わたし”の思考上別のことを考えていて痛みを放っておいたら、我が身も“わたし”も滅んでしまうかもしれないのだ。 我が身無しに“わたし”が生きられるか、それは分からないし、生きられないだろうと思っているが。 しかし陣痛は十中八九よりも高確率で死にはしない。 胎児をこの世に送り出すことができれば、とりあえずの母体の任務は完了である。 胎児から人間へ、臍帯呼吸から肺呼吸へ、寄生から自立へ、中から外へ。 言うなれば、これはかえるくんが死ぬまでの大いなる細胞分裂の旅の門出なのだから。 母体よりも胎児の力が大いに働いての出産であると考えれば、母体はただそっと見守るように応援する程度の態度を取っていれば良いのかもしれない。 ということで、私は大いに恐れている陣痛を何とか自分の都合の良いように捉えるべく、想像力を働かせているのである。 ところで、切迫早産になって一泊観察入院をしてきた。 要経過観察、ということで今朝無事に解放された。 切迫早産、とは何やらものすごく鬼気迫るものを感じるが、私のは軽い切迫早産であった。 糖尿病予備軍という言葉があるが、切迫早産予備軍、くらいのものだ。 元々妊娠してからというもののお腹が張りやすいのはとても感じていたが、昨日一昨日は子宮の収縮が周期的に訪れるものだからやや驚いた。 生理痛に似ていて、そう言えばもう何カ月も生理が来ていないことにも少し驚いた。 我慢しようと思えばできる程度の痛みだったのだが、やはり私ひとりのことではないので病院に行くと、膨らんだお腹に計測器とバンドを巻かれて収縮具合を測ると緊急ではないもののやはり少し心配な状況ですねと言われる。 かえるくんの心拍、私の心拍、陣痛度合、というのがモニターに映し出されて数字で見ることが出来る。 かえるくんの心拍は私の1.5倍から2倍ほどだがこれは正常。 陣痛の数値は当然かもしれないがきちんと私のお腹の痛みと連動していて、5分から7分おきに軽く収縮を起こしていた。 私が見た最も高い数値は67だったのだが、これは本番の陣痛ではどのくらいの数値になるのですかと聞きたかったが聞きそびれてしまった。 その他にも諸々の検査を行う。 切迫早産とはまだ産まれて良い時期ではないにも関わらず胎児が産まれそうになっている状態を言う。 妊娠週数にもよるが、胎児はお腹の中で十分に成長できていないため、産まれてしまうと様々なリスクを伴うことがあるものである。 妊婦の中には本当に切迫逼迫の状況の人もいて、そういう場合は2ヶ月も3か月も管理入院となる上、最も酷い人では点滴打ちっぱなしで起き上がることも許されず、排泄さえも看護師介助の上ベッドの上で行うという人もいるらしい。 私でさえも、診察室から車いすで移動したし、洗面所からトイレの2,3メートルの範囲から出るときは必ず看護師に行って車いす移動をしてくださいという指令が下った。 ルールはルールである。 明らかにそのような安静の仕方は私には不必要なような気もしたが、ルールを守らなくて危険を見るのは私自身だし、看護師さんも監督者として非常に困るだろうから、郷に入っては郷に従えである。 私は人生で初めて入院して、身体は元気であることも大いに関係しているが、初めてのことに興味津々で少し楽しんでいた。 しかしやはり長期入院ともなると不自由極まりなく狭苦しいだろうと思う。 大部屋はカーテンで仕切られていて一泊では同室の患者さんの顔を見ることもなかったが、窓際かそれ以外かでかなり気分の差があるだろう。 居所からの通風、眺望、抜け感、というのを私はとても重視しているが、穴倉みたいなところでは鬱々として別の病を発症してしまう気さえする。 ところで、なぜだか私は、その他のリスクは心配してもこの切迫早産で入院ということにはならないだろうと思っていた節がある。 それはけいこが「私は流産しにくい身体だから、そういうのはあんたらにも遺伝する」と豪語していたことが大きい。 私たちの身体は親からの遺伝に大きく関与するだろうが、この世で肺呼吸を初めて34年も経つと言うのに、私はまだそれに全幅の信頼を置いていたのかと思うとげんなりする。 我が身体に遺伝以外のパラメータが存在しないはずないではないか。 今朝外界は曇っていたが、なんとまあ素晴らしい空気であろうか。 無理しない、無理しない、と3分をかけてタクシーで帰ってきた。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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